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固有の人生を描くということーー『この世界の片隅に』感想

話題の映画『この世界の片隅に』をそこそこ前に観てたんですけど、昨日人と話してちょっと書きたいことがまとまったので、メモ書き程度に。

こうの史代の原作は知っていたもの未読、片渕監督も以前『マイマイ新子と千年の魔法』を観たことある程度。

太平洋戦争の色が濃くなるなか、広島から軍港の街・呉に嫁入りしたすずが主人公。広島と呉なんて電車で30分ぐらいで行けるんじゃないの?ぐらいのイメージでしたが、戦争が進むにつれ段々その距離が(汽車の切符・便数の関係で)遠くなっていくのが印象的でした。そうした物理的な時間距離なだけでなく、すず本人の心の距離も広島から呉に移っていたというのもあるのでしょう。

等速でない時間の辛さ

この映画は、昭和一桁(すずの子ども時代、正確には忘れました)からはじまって、昭和21年ぐらい?に終わるんですけど、作中で印象的なのはマンガのように日付が右上に出るくること。自分としてはこの日付がとても印象にのこりました。

戦争が進むに連れ少しずつ物資がなくなっていくこと、昭和20年には入ると呉も含めて本土空襲が激しくなること、そして8月6日に広島に原爆が落ちることも後世の自分達は知っている。呉は軍港ゆえに当然激しい空爆があったところです。
姪を失い、右手を失い、同級生を失い、少しずつすずさんは追い込まれていく辛さ。昭和20年6月に機銃掃射を受けてドブに逃げて「イヤや」を連呼するすずさんをみて、視聴者はあと2ヶ月でその戦争が終わることは知っている。しかし、本人たちはそれを知る余地はない。

人生がそうであるように、作中内の時間も等速ではないので、とにかく昭和20年が過ぎるのが長い。あと少しで戦争は終わるのに、と歴史を知っている僕たちは思ってしまうのだけれども、なかなか昭和20年8月15日にたどりついてくれない。このエントリの冒頭で日付が印象に残っている、と言ったのはこの等速でない時間の象徴として、なかなか8月15日にたどりついてくれない残酷な日付が印象に残っていたのです。作中でもタンポポや蝶々など季節のものが描かれていて、この季節感も時間とリンクしてすごく丁寧に描かれていました。
でも、8月15日にたどり着くためには、8月6日を超えなければならない辛さ。これは視聴者が作中人物よりも情報を知っているからこそ、すずさんとは別の意味で視聴者も追い込まれていく気がして、本当に作中で観ているのが何度も辛くなりました。

反戦映画でない?

この世界の片隅に」はすずさんの人生ないしは生活を描いている、とよく称されています。また、既存の反戦映画へのアンチテーゼとして語られることも多かった印象はあります。
この世界の片隅に」は反戦映画である/ないで語るのは不毛さしか感じないのですが(こういった言説のもとになるのは終戦の日のすずさんの発言だと思うのですが)、戦争作品にありがちな作中に後世からの代弁者がいないという点は丁寧に描かれているなと思います。

戦争モノは山中恒による少年Hへの批判に代表されるような後世からの代弁者を出してしまいがちですが、それを排除しているがゆえに「生活」を描いているといった言説に繋がっていったのかな、と(強いて言えば、モダンガールのお姉さんがちょっとそういった立場に近い存在でしょうか)。
ただ、戦争の悲惨さを描いてないかというと全くそんなこともないわけで(前段で述べた通り、戦争ですずさんはかなり追い込まれていってる)、反戦である/反戦でない、とか括ることの方が違和感あります。

すずさんの固有の人生

エンターテイメントでは作中登場人物に感情移入させるのが良い作品、のように語られますが、先程述べた通り本作は後世からの代弁者もいないし、歴史を知っている自分たちはすずさんに感情移入もできない。視聴者とすずさんの人生には決定的な乖離があるわけです。でも、その乖離あるからこそ、固有の「すずさんの人生」を描くいうことになっていくのではないでしょうか。

家族と死と共同体と――映画『海街diary』感想

一ヶ月ほど前に、アメリカから帰る飛行機の中で『海街diary』を見ました。
見た理由は単純。大韓航空機内に入ってる日本の映画がこれしかなかったんです(もちろん日本語吹き替え版のハリウッド映画はそこそこあるから、それほど見るものには困らない)。

是枝監督作品、過去に見たことあるのが、『空気人形』ぐらいで、空気人形の感想は正直「メタファーあざといなー」って感じで、全然いい印象なかったんですよね。日本を代表する監督にめっちゃ失礼な話ですけど。

で、この『海街diary』そんなわけで全く期待せずに見たんですけど、めっちゃ素晴らしかった!

というわけで、相当遅い感想を書いてみようかな、とおもって書いたのがこれです。日本を代表する女優4人(めっちゃ豪華!)を使っている映画に何を今更って感じですが……。ちなみに、原作は全く読んでません。

冒頭のあらすじとしては、鎌倉に住んでいる三姉妹のもとにだいぶ前に別れた父親が死んだという一報が届きます。
と言っても、両親はとっくに離婚して離れ離れになっており(三姉妹は3人だけで住んでいる)、三姉妹の方にはそれほどの深刻さはありません。そして、三姉妹は会ったことのない妹すず(広瀬すず)と出会います。
亡くなった父を看取った妹すずと、継母も含めた周囲のすずに対する扱いをみた長女・幸(綾瀬はるか)は、すずに一緒に暮らさない?と持ちかけ、すずが「行きます」と答え、鎌倉で四人の生活が始まるところから物語が始まります。

と、冒頭のあらすじを書くと、めっちゃ重い空気の映画に思えますが、全体的にはそうした空気ではないんですよね。
すずはしっかりしている描写をされていることもあって、特段のイニシエーションもなく(強いて言うなら自家製梅酒を飲まされるところですかね)、三姉妹の家に馴染んでいるし、すずも両親がいないことをサラッと学校の友達に言ったりするので、そういう「両親の喪失」といった類の悲しさを持っている映画ではないです(三姉妹の母親は別のところに生きてはいるものの、どちらかというと四人の生活を乱すものして描かれている)。

というよりも、この映画のすごいところは、冒頭では葬式、中盤では法事、終盤ではまた葬式ととにかく喪服ずくめの映画ではあるのですが、不思議とそれが直接的な悲しさというか、死をクライマックスとしない雰囲気を持っている映画です。

すずが鎌倉に来て、大したイニシエーションもなく地元の少年サッカーチームに入ります。
さっきも言いましたけど、両親のいない恵まれてない子だから、イジメに遭うとか過酷なイニシエーションを通らないと仲間として認めて貰えないとか、陰口を叩かれるとか、そういうのは本当にない映画です。物語としては、そうした逆境をつけたほうが濃淡が出ると思うのですが、決してそういう安易な道を選ばない。結構、なんとなくふわっと共同体に溶け込んでいくですね、すずは。この描き方は本当にすごいと思います。

そのサッカーチームかつ三姉妹の御用達のお店が「海猫食堂」になります。海の街である地域とガッチリ結びついた地域共同体の象徴のようなお店ですね。これだけ、複雑な家庭だと白い目で見られたりとかしそうですけど、この奇妙な四姉妹を地域共同体は受け入れています(逆に三姉妹の親戚のほうが拒否反応を示すことが多い)。

もちろん、しっかりとしているすずには鬱憤が溜まっている(特に継母に対して)描写や父親絡みでここにいていいのだろうかと悩むシーンはちょこちょこあるんですが、家族や共同体から排除しようとかいう描写はほぼありません。
そういった波風立ちそうなところも主に親戚絡みであるのですが、結局ふわっと家族と地域共同体に包まれていくというか。そうした雰囲気を持っている映画です。

(以下ネタバレあります。ネタバレされても価値が毀損するような映画ではないと思いますが、結構これが告げられるシーンはインパクトあります)

ある日、地銀の銀行員である佳乃(長澤まさみ)は「海猫食堂」のおばちゃん・さち子から海猫食堂を巡る財政状況を知ります。海街diaryのすごいところに、家族と地域共同体と同時に仕事が日常の中で隣接しているのもすごいですよね。決して、仕事が家族の暮らす日常から隔絶されていない。

仕事と四人の家族生活以外にも、四人の恋愛模様は並行して描かれています。恋愛とか仕事とか家族とかそうしたものが、全部「海街」というなかで完結している。「海街」という共同体に包まれているといった感じですね。

でも、その四人の恋愛模様の中で唯一「海街」から隔絶されているものとして描かれているのが、幸の恋人の医者ですね。四姉妹の家が古典的な日本家屋だったり、他の姉妹の恋人は地元の商店で働いていたりちょっと前の日本をイメージさせるところにいるなか、幸の恋人だけは現代的なマンションに暮らしています(しかも幸とは不倫関係)。

終盤、幸の恋人は離婚して渡米するので、一緒に来て欲しいと持ちかけます。海街の空気に程遠いアメリカという遠い世界を持ち込んでくる存在なわけです。幸は最終的には恋人より四姉妹を選ぶわけですが、「家族」を選んだという側面の他に街を選んだという側面もあると思います。

物語の終盤、海猫食堂のさち子はガンで亡くなり、看護師である幸が看取り、葬式で4姉妹が参列している描写になります。ここも仕事と日常と共同体が奇妙にクロスしている仕掛けになっているんですね。泣ける。

最後、物語は浜辺を歩いてる四姉妹の会話の会話は、四姉妹は当たり前に家族なんだ、と思わさせられます。重要なのは何かをきっかけにとかではなく、かなり前から家族になってるんですよね。
もちろん、さち子が亡くなったことは悲しいのだけれども、決して暗いだけでは終わらない。

この作品のいいところは、「死」と「家族」と「共同体」が自然な距離で隣接してるところなんですね。
そこに仕事もあり恋愛もあり、でも、日常は続いていくという終わり方をしています。冒頭にも述べましたが死が決してクライマックスにならない、という稀有な作り方をしています。

作中、鎌倉はあまり高い建物がないので、全体的に青っぽい映像が多いのですが、「死」も「家族」も「海街」が全体を包み込むような雰囲気になっている、そんな素敵な映画でした。

社会批評性と実存――ミシェル・ウェルベック『服従』感想

去年から話題になってた作品・ウェルベック『服従』をようやく読みました。

服従

話題になっていたのはウェルベックが日本で(海外文学としては)人気がある作家ということもあるのでしょうが、やはりホットなフランス政治を舞台としたセンセーショナルさでしょう。実際、帯にも「シャルリ―・エブドのテロ当日に発売された近未来思考実験小説」という煽り文とともに、内田樹とか高橋源一郎とか東浩紀とかの様々な知識人の絶賛コメントが並んでいます。その上に、解説が佐藤優。どんな政治小説かと身構えてしまうのも無理もない煽り方です。実際、読むまで「ウェルベックも政治にかぶれてしまったのかー」とか思ってました。イギリスのロックバンドとフランスの知識人はキャリア中盤以降、政治にコミットしたがるし(勝手な印象)。

政治的にはフランス大統領選挙で極右「国民戦線」とイスラム穏健主義政党が決選投票に残り、既存政党がイスラム穏健主義政党と連立し、イスラム穏健主義政党が大統領選に圧勝。イスラム教徒が大統領になり、次第にイスラム化(高等教育の縮小、一夫多妻制、女性の社会進出の減少……)が進められる、という内容がインテリの主人公によって圧倒的なディテールを持って描かれています。
余談ですが、日本で民主主義を捨てるか、日本文化を捨てるか、と言われたら、前者を多くの人は選択しそうなので、このストーリーが成立するリアリティをもたらすものとして、逆にフランスの「民主主義」への信頼の強度を感じます(ウェルベックは意図してないのだろうけど)。

ただ、ウェルベックなので、そんな単純な政治小説ではありません。主人公はフランス文学(ユイスマンス)を教えている大学教授。冒頭から、男性の性的魅力が女性に比べれば歳をとっても緩やかにしか下降しないことを利用して(しかもそれを自覚しながら)、女子大生を抱きまくっています。

ウェルベック作品の男性主人公が性欲の強さを持て余しているのが多いなかで、今回の主人公は比較的性愛も社会的地位も恵まれています。

語り手である主人公は冷酷な目で変わりゆく社会を観察してますが、政治的混乱に対して、基本的にデタッチメントです。村上春樹が年齢を重ねるにつれ、コミットメントに変化していったのと対照的なぐらいに。ただ、政治的混乱でユダヤ人のセフレを失います(国民戦線がかつてユダヤ人排斥を訴えたため、イスラエルに移住してしまった)。これが主人公の選択に影響を与えます。

イスラム主義政党が政権をとったあと、主人公は一旦大学から退職する。しかしながら、イスラム教徒の新学長から説得され、再び教壇に戻ります。学長が執筆したイスラム教について解説した本を貰うのですが、「大半の男がするように」一夫多妻制のページをすぐに開くという描写は面白いですね。

そして、物語は下記のような記述で終わります。
「何ヶ月か後、講義が再開され、ヴェールを被った、可愛く内気な女子学生たちが登校してくる。(中略)女子学生たちは皆が、どんなに可愛い子も、ぼくに選ばれるのを幸福で誇りに思うに違いないし、ぼくと床を共にして光栄に思うだろう。(中略)ぼくは何も後悔しないだろう」

ウェルベックは『素粒子』では、性的コンプレックスを抱えた兄をSF的展開で救いをもたらそうとしました。本作でそのSF要素の役割を果すのが、イスラームの一夫多妻制になっているという最高の皮肉で物語は終わります。しかも、皮肉なことにこれまでのウェルベックの小説のなかでは一番現実的で、一番救われている。
一見、政治小説に見せかけつつも、その政治の問題が実存と関わってくる巧みさが本作の魅力でしょう。もちろん社会批評性をもったものとして読むことも可能だけれども、それはガジェットにしかすぎない。ウェルベックのデビュー作『闘争領域の拡大』では、恋愛市場を現実の市場のアナロジーとして描きましたが(それゆえの階級闘争のメタファー)、社会批評的な要素を実存の問題を落としこむことに関しては、本当に巧みな人です。

よくよく考えれば、この主人公は旧体制でも、男性と女性の年齢に対する非対称性とか教養とかを使って女子大生を抱いていたわけで、実際のところ何も変わってない(ここで重要なのはウェルベック作品に出てくる男性の大半は、そこそこ教養のある女と寝られればそれでいいのであって、その女性は交換可能な存在である)。
作中でイスラム主義の新学長が「大学教授は複数妻をもつに相応しい職です」(イスラムでは複数の妻を持つためにはある程度の経済力が必要とされているため)と述べているけれども、実は主人公が教養と地位で女子大生と寝ていたことを制度的に肯定しただけとも言えなくもない。ここでも、主人公の実存と政治状況が合致してくる巧みさが映えます。

政治をディテールをもって描きながらも、そこに一片の愛も信頼もない。主人公はイスラム教徒に改宗するのだけど、イスラム教徒の新学長が語るID説にも興味が無いことでしょう。さらに言えば、ウェルベックは交換不可能な愛なんて信じていない。ウェルベックはそうした余計なものを取っ払った向こうにある実存を冷酷な目で抉りだし、描き出す。

ウェルベックは、次は何を抉りだすのか。そして、これよりも現実的な救済をウェルベックはいつか描き出せるのか。次回作が楽しみです。

組織と貧者の狭間でーー『フランチェスコと呼んでーーみんなの法王』感想

イタリア映画祭で『フランチェスコと呼んで――みんなの法王』をみてきました。

特にイタリア映画に興味もなく、カトリック教徒でもない自分がこの映画を見に行ったかといったら、単に教皇フランシスコのファンなんです。もっとも、大して調べたりもしていないので、ミーハーなのですけど。

アルゼンチン出身の教皇フランシスコは清貧を重んじ、貧しい人に寄り添うことを常に忘れていない教皇なので、大変尊敬しています。

そんな教皇フランシスコ(ベルゴリオ枢機卿)のアルゼンチン時代を主に描いた作品です。

イエズス会への道に進路を決めたベルゴリオをインテリ階級の大学の友達が歓迎しないところからこの物語は始まります。ラテンアメリカみたいなカトリックへの信仰が強い国だと、もっと歓迎されるのかと思っていました。

アルゼンチンはカリスマだったペロン大統領がいなくなったあとの軍事政権、軍部が教会への圧力をかけ始める時代に突入してきます。
管区長になっていったベルゴリオは、軍部が圧力をかけてきた結果、貧者に寄り添う(=反政府組織に近しい)司祭を何人も失っていきます。

この映画で描かいているベルゴリオは貧者に寄り添っている人でもありつつも、あくまでも組織の中にとどまっている人です。ベルゴリオは軍部にその司祭たちが影響を受けていたであろう「解放の神学」への立場を聞かれた際に、解放の神学への理解は示しました。けれども、ベルゴリオはバチカンには認められていない解放の神学に自らは飛び込んで行こうとはしない。
本来ならば、貧者に寄り添っているはずの司祭が軍部に拉致され、彼らを助けることが出来ない。拉致された彼らが解放されたあと手助けをしようにも、尼僧に彼らの居場所を教えてもらえないのは、そうしたベルゴリオへの抵抗感からでしょう。

軍政時代のベルゴリオの軍政との戦いは、弱者に寄り添いつつも、限界があった。控えめに見ても、軍政との戦いは引き分け、どころか若干負けであったと言えるでしょう。

ベルゴリオはその後もカトリック教会の中にとどまりつつ、司教補佐になったあとの物語が描かれます。

司教補佐となったあともブエノスアイレスの街を歩き、貧民と寄り添っていたベルゴリオ。軍事政権という目に見える巨悪はなくなり(フォークランド戦争の敗戦ですね、この間にあったのは)、スラム街の再開発計画を進める行政とスラム街から立ち退きを求められる住民たちの対立が描かれます。

ベルゴリオは、国と対立したくない司教を直接説得し、自ら市との交渉役を名乗り出ます。再開発計画は行政よりも上の要請・投資家との戦いとなってくるわけです。彼は再開発計画の場に司教をつれだし、その場をみた司教は貧しき者へ、強制執行を行っていた警察官へ、祝福を行います。結果、再開発計画はまた見直しとなりました(このシーンめっちゃ泣ける)。

ベルゴリオは軍政との戦いの際に、組織に残った人間でした。その結果、救うことのできなかった人もいたことでしょう。しかし、再開発計画との戦いは信仰と組織を用いることで勝ちました。
管区長を辞し、田舎司祭をやっていた際に、司教補佐への就任の依頼を受け、受諾した理由に「多くの人を救うため」と述べています。
また、軍部が神学校を捜索した際に、「組織の人間だから悪く思わないでくれ。あなたも組織の人間だからわかるだろう」と述べる軍人に対し「私は私の良心に従う」と述べます。

彼は組織に残りつつも、貧者と良心に寄り添い、組織を動かして彼らを救っていったベルゴリオ。
そして、カトリックという旧弊な組織の頂点にまで辿りつきました。

就任後の活躍はご存知の通りですが、彼は即位後、生前退位したベネディクト一六世への敬意と連帯を度々表明しています。ベネディクト一六世は保守派で知られた教皇で、一見正反対のような見えますが、教皇フランシスコはベネディクト一六世への敬意を忘れていない。そのことは、劇中では事なかれ主義で描かれていた司教への敬意を常に持ち続けていたことと被ります。

もちろん、映画は映画なので、かなりバイアスの入った人物像ではあるでしょう。また、劇中では全く描かれていませんが、フランシスコは同性婚に反対したりと、保守的な側面も持っている人ではあります。

組織を出て貧民と寄り添った人も聖職者もきっといるでしょう(たぶん)。だけれども、組織の中で組織を少しずつ良くして行く人も必要です。

こんなことを言うのも大変僭越ですが、教皇フランシスコがその地位を使って、世界を少しでも良きものに、貧者に寄り添った社会にしていくのを、改めて期待せざるを得ません。

キリスト教事情やアルゼンチン事情には全然詳しくないので、間違えたこと書いてたら許してにゃん)

人と建物--中銀カプセルタワービル

久々に都心に赴いたので本屋でふらふらしてたら見つけた本。
都会の本屋は建築関係とか思想関係の本が充実してて、ふらふら歩いてるだけでも楽しいですね。

中銀カプセルタワービル 銀座の白い箱舟

中銀カプセルタワービル」の写真や住んでいる人たちのインタビューを集めた本。

黒川紀章の代表作として広く知られているビルですね。ハロプロ的には東スポの連載で℃-uteが撮影してました(ものすごくどうでもいい情報だ)。
メタボリズムの代表作として、カプセルを積み重ねることで出来ています。カプセルを交換できる構造になっているけれども、実際はカプセルを交換されたことはない。近年は老朽化で建替をするかどうかでもめていることまでは知ってました。

作品として興味あってパラパラめくってみると、「雨漏りがひどい」「お湯が出ない」「寒暖の差が激しい」「湿気がひどい」「手狭になってきた」とかそんな世知辛いエピソードが色々出てきて面白くなってつい購入。
有名建築の本ってどうしても、設計者の意図と綺麗な写真が前面に出てきがちですが、「数十年経過した写真」と「住んでいる人の声」が並んでいるっていうのはとてもおもしろいですよね。

メタボリズムの皮肉

自分も昭和50年ぐらいに作られた鉄筋コンクリート製アパートに住んでたことがあるのでわかるんですが、この時期に最先端とされていたのか無駄にセントラルヒーティングとかセントラル給湯器?とか多くて、見事に使えなくなってる笑。そして、アスベスト問題で修理できない笑
小島信夫抱擁家族』で、米兵に妻を寝取られた夫がセントラルヒーティングの家を建てる描写がありますが、アメリカ的なセントラルヒーティングへのあこがれが強かったんですかね。

閑話休題、そういった冷暖房、水回り、雨漏りといったあたりに問題を多く抱えていってるらしく、大変興味深く読みました。カプセルごとに交換するコンセプトが故にカプセル未満の設備の修理・交換がしづらなくなっているというもなかなかの皮肉なものですよね。

また、手狭になってきているというも面白くて、カプセルがそれぞれに独立性が高いがゆえに壁をつなげるとかしづらいってのも皮肉ですよね。
メタボリズムのコンセプトに、そこから成長していく、というのがあったかと思うのですが、それが逆に足を引っ張ってしまっているというか。

でも、結果的にカプセルが交換されなかったがゆえに、各所有者が各々修理していき、「無個性で画一的なカプセル」の積み重ねが個性をもったカプセルに変化していったというのも面白いですよね。設計者の意図と違った方向で、進化していったメタボリズムというか。ある程度、成長の方向性を決めたプラットフォームを作っても、その上に育っていたのは別の方向性だったというか。

都会のセカンドハウスというコンセプト

中銀カプセルタワービルって有名な建物ですが、結構なんのための建物なのか知らない人も多いかと思います。
実は自分も知らなかったんですが笑、都心での「逆別荘」ともいうべきセカンドハウスやオフィスとしての利用を見越して作られたとのこと。
だから、洗濯機置場がもともと常設置き場設置されなかったし、最初から設備をはめ込んだユニットとして作られていたというのも納得できます。

これとても面白いな、と思っていて、実際つくば市に住んでいると都心のセカンドハウスめちゃくちゃ欲しい笑
終電を気にせず、ふらっと週末に東京に遊びにいった際に拠点となる場所があるのはいいですよね。実際、オフィスとしてや別荘として使っている人のほうが多いようです。

このコンセプト自体がメタボリズム的というか、人口増大とともに都市は拡大することを前提に(=都心からの距離は離れていく)、都心にセカンドハウスが必要となっていくだろうというこが前提のコンセプトですよね。今はどちらかというとコンパクトシティとかが注目されているし、こういったところでも時代を感じてしまいます。

カプセルというコンパクト感

この本を買った理由としては前述のとおり有名建築と住んでいる人たちの声のギャップに惹かれたからなんですが、写真から伝わってくるのカプセルの「秘密基地」感が気に入ってきました。
とにかく狭い。そして、窓が大きい。けれども、窓は一箇所しかない。この窓が一箇所しかないというのは結構重要なのかな、って思います。

外観はメタボリズムを意識していながら、内部はミニマムで閉鎖的な空間を構築されている。デザイナーズ住宅とか開放的な空間!とかコンセプトがとても多いですが、人が多く行き交う都会だからこそこうした閉鎖的で個人的な空間の重要性を黒川紀章は理解していたのかなと逆に思います。
窓を複数面につけてしまったり、一面であっても全面ガラスにしてしまわず、秘密基地から外を覗くかのような丸い窓をつけたのも、それを理解していたからかな、という気もします(何も調べてない妄想ですが)。

実際、数百万円で買える(らしい)という話を聞くと、都心でのセカンドハウスがほしいという理由もあり結構心ひかれます。ただ、実際メンテナンスが難しそうなのが難点ですが、いつか買いたいですね。

有名建築と実際住んでいる人に注目した本というだけでも面白いですが、編纂した人の愛が伝わってくるいい本でした。

アイドルと外見至上主義――アイドルの残酷さとは

 

*リベラルとアイドルの相性の悪さ

 

 ちょっと周回遅れな話題ですけど、HKT48の「アインシュタインよりディアナ・アグロン」という歌詞が女性差別的だと話題になりました。ディアナ・アグロンとは「glee」に出てくるクィンという女性を演じた女優さん。「glee」は、スクールカーストからハブられているようなマイノリティたちが、歌や踊りを通して自己表現することを肯定する価値観を持った作品です。言わば、社会的な役割から解放されることを肯定しているわけだから、以下のまとめで最初に指摘されているgleeが訴えた思想と正反対というのは頷ける。
http://matome.naver.jp/odai/2146033391996228201

 

 最も、作中でクィンの立ち位置って、元々グリー的なものと対極だったわけで、もうちょっと話は複雑だと思うし、作中におけるクィンという役について色々考えるきっかけになったので、まあそれはいつかの機会に(期待はしないでください)。

 

 アメリカのドラマってポリティカルコレクトネスというか作中でかなりの確率でセクシャルマイノリティが出てきたりするものだけど、「glee」はその中でもリベラルな価値観を全面的に押し出している作品です(特にシーズン2以降、そうした側面が強調されるようになったイメージ)。

 

 今回、特に炎上したのはそういったリベラルな価値観を持った人たちから、AKB48グループに対する反感が強かったからという印象はあります(それとは別にネット上では二次元界隈からのAKBへの反感が強いけれども、今回は置いておきます)。ただ、今でこそAKBがアイドルへの批判・反感の矢面に立ってくれていますけど、これが15年前なら批判の矢面に立ったのはモーニング娘。であっただろうし、基本的にリベラルな人たちからのアイドルへの反感(特に女性アイドル)は根強い。

 

 実際問題、女性アイドルはセクシズムと外見至上主義の悪魔合体みたいなところあるし、こればかりは否定しづらい。さらに言えば、加入-卒業を繰り返すハロプロ、AKBといったあたりは、「女性は若い方がいい」といった価値観を肯定している側面もあるし、リベラル的にはかなり旗色が悪い。ももクロが「5人は嵐を目標にする」と公言しているのも、こうした価値観への反発から来るものだろうし、実際頑張ってもらいたいと思います。

 

 女性アイドルのそうした側面から逃れられないということを前提に、そうした批判から少し逃げるために、今回は外見至上主義という点に注目して、逃走線をこの記事では考えてみようと思います。

 

*外見至上主義から逃れるためには

 

 アイドルのファンは「そのアイドルが好き」と語る。これを他のエンターテイメントやスポーツのファンが「◯◯」が好き、と語ることとの違いを少し考えてみます。
例えば、野球ファンはあるプロ野球選手が好き、と語った時に、一般的に好きなのはそのプレイが好きと解釈されると思います。川相選手が好き、と語った場合(例が古い)、いぶし銀な選手が好きなんだな―、という印象を受けるでしょう。
歌手のファンはもちろんその人の“歌”が好きというであろうし、小説家のファンはその小説家の小説が好き、とニアリーイコールと解釈されると思います。要するにアイドル以外のエンターテイメントやスポーツのファンはそのスキルやスキルによって生み出されたもののファンと言い換えることも出来ると思います。

 

 それに対して、アイドルのファンはその「人」が好き、とはっきり公言している人たちでもあるんですね。これは、結構特異なことだと思います。その「人」が歌やダンスかもしれないし、容姿かもしれないし、発言かもしれないし、性格かもしれない。その全てを包摂して(逆に言えばあえて分節化せずに)、アイドルのファンは「そのアイドルを好き」「◯◯推し」と語っているわけです。

 

 アイドルファンの「推し」とは、「人」全体に対する肯定とも言い換えることが出来ると思います。もちろん、それには容姿も重要な要素として含まれているのは否定できません。というよりも、容姿が重要な要素として含まれているからこそ、外見至上主義といった反発をアイドルオタクはリベラルな人たちから受けることが多い。

 

 だけれども、わたしたちはある有名人のファンと言った時に、スキルと容姿を分節化して考えることが出来るでしょうか。
映像・写真メディアが大きく発展した現代において、私たちがその人のファンであるといったときに、スキルとその人の容姿を分節化して捉えることはかなり難しいように思います。
 その最たる例が女子アナでしょう。本来であれば、(もし女子アナを純粋にスキルだけで判断するならば)アナウンス能力だけで判断されるべきなのだろうけど、評価には容姿が大きく関わってきてるのは否定出来ないでしょう。


 そうした例は、俳優・女優、歌手、声優、スポーツ選手……様々なところにこうした現象は見られます。一見、無縁にみえる小説家でさえ、京極夏彦ダ・ヴィンチの表紙になれば売上部数が伸びるらしいし、美人で知られる川上未映子は小説誌の表紙を飾ったわけです。世間ではこれを「アイドル"的"」な売れ方なんて表現されたりもしますけどね。

 

 先述したとおりに、大きくメディアが発展した現代において、容姿とスキルを分節化するのは難しいし、それを悪だと断じるつもりはありません。要するに、現代人は無自覚に外見至上主義というある種の暴力を振るうことから逃れられないのだと思います。

 

 では、アイドルはどうでしょう。先に述べた通り、「◯◯推し」という表現に、容姿も好きという意味合いもくっついてきます。アイドルは容姿で評価されることをある程度は前提で共有されているとも言えます。前提で共有されているからこそ、逆説的に先に述べたような無自覚に振るう外見至上主義の暴力からはある程度逃れられるのでは?という思いもあります。


 アイドル界隈は、アイドルとアイドルオタクの間で「かわいい」と容姿を形容することが相互了解としてあるがゆえに、アイドルに向かって「かわいい」って言える安心感はあります。これを外見至上主義だ、と批判することは出来ると思いますが、少なくとも「暴力的だ」とは言いづらいとは思うのです。

 

 自分の話になるのですが、何らかの能力を持っている人が容姿を評価して欲しい、と本人が言ってもないのに、容姿を評価するってのは結構個人的には苦手です。浅田真央さんの演技は確かにすごいとは思うけど、メディアまわりの扱いはかなり苦手です。アイドル評論家・中森明夫ゼロ年代最強のアイドルは浅田真央(ドヤッみたいなこと言ってて、ある意味正しいとは思いますけど、同時にこの辺りの暴力性に無自覚な辺りは嫌いです。

 

 とキレイ事を言ってみても、アイドル周りにはアイドルが容姿でランク付けされたりとか、誹謗中傷に晒される現実もあります。


 リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』の序章で「残酷さこそ私たちがなしうる最悪なことだと考える人々こそが、リベラルである」とジュディス・シュクラーをひいてドヤ顔で言っています。


 朝井リョウの『武道館』の冒頭で、ぽっちゃりアイドルの子を肯定しようとした試みがありましたが、そういった形でアイドル界隈の「残酷さ」を軽減していく試みを続けていくことは大事だと思います。

 

P.S.ある記事への違和感として、この記事書いてみたけど、次からは工藤遥ちゃんが可愛いとかアンジュルムの新曲が楽しい、とか、そういう楽しい記事書きたい。

(注:次は期待しないでください)

アイドルと恋愛とその向こう側――朝井リョウ『武道館』について

朝井リョウ原作、Juice=Juice主演のドラマ『武道館』がフジテレビで始まった。その翌日にモーニング娘。鈴木香音が今春をもっての卒業を発表した。ただの偶然なんだけど、『武道館』の作中で香音ちゃんをモデルとした登場人物が出てくる(ぽっちゃりキャラで、インターネットで叩かれている)だけに、妙な因果だな、と思った。

 

さて、『武道館』はアイドルの恋愛描写があるこということで、アイドルファンたちの間で話題になっていた。ドラマの番宣でもアイドルにとって禁断の恋愛がテーマなことは強調されているし、実際原作も読んでたから、この後恋愛展開があることも知ってる。普通に恋する宮本佳林ちゃんの演技、めちゃくちゃかわいいだろうし、今後も楽しみ。

 

《以下『武道館』のネタバレがあります。未読で気にする方は気をつけて下さい》

 

『武道館』の主人公の愛子は、幼馴染の大地との恋愛が発覚して、結局アイドル辞める。しかし、その後アイドルの意味が転換して、アイドルが恋愛も含めて表現することを肯定する社会になった未来が描かれて『武道館』は終わる。

それ自体は素晴らしいと思う。『武道館』という作品は恋愛禁止っていうアイドルへの抑圧的な空気への批判はもちろんあるんだけど、同時に歌って踊るアイドルへの肯定も含んでいる。愛子は子供の頃から大地とアイドルが好きで、それが両立しないことの理不尽さを訴えている。もちろん、その願いは短期的には叶わないのだけど、アイドルが自分をステージ上で自由に表現をする社会に変わっていく理想像が託された作品とも言えるだろう。

アメリカのドラマ『glee』で、グリークラブとは歌と踊りで自己を表現する場だみたいなことをシュー先生がどっかで言ってて、実際作中では様々なマイノリティが自分らしく表現することを肯定的に描いてる。多分、朝井リョウの理想のアイドルとして、ああいうのが(本人は意識していないのかもしれないけど)、あるのだと思う。

 

もちろん、何かと制約の多いアイドルが自分らしくを素直に表現できる社会になったら素晴らしいとは思う。 でも、同時に『武道館』に感じたのはアイドルが恋愛を解禁すれば「自由に」「自分らしく」を表現できるようになるという陳腐さだ。

 

アイドルにある辛さの象徴として、朝井リョウは「恋愛禁止ルール」を中心に描いてみせたわけだけど、本当にそれがアイドルの辛さの中心なのかな、って最近とみに思う。

 アイドルの恋愛禁止について、どう思いますか?みたいな質問はテレビのバラエティ番組や下世話な雑誌でよくあるのだけど、本当に下世話だな、って印象しかない。アイドルたちがステージ上で、(テレビやネットも含めた)メディア上で、歌い踊り語り、様々なことを表現している。そのことに対して、敬意も払いもせずに、いきなり恋愛のことについて、聞くインタビュワーって普通にアイドル舐めていると思う。

歌手や女優や楽器演奏者でもいいけど、普通に何かの表現者に対して仕事上のインタビューで休日はどう過ごしてますか?ぐらいならともかく、恋愛についてプライベートで聞くことはまずないだろう。でも、それがアイドルの場合、何故そんな失礼なことが行われるかというと、「禁断のマル秘トーク」みたいにセンセーショナルな感じがするからだ。

でも、アイドルが恋愛すればセンセーショナル、という考え方時代が、ものすごい陳腐だし、ベタだ。今までも散々描かれているし、何を今更っていう感じさえもする。

 

アイドルの辛さの中心として「恋愛禁止ルール」を無条件にあげるのは、無意識のうちに「10代、20代の女の子は恋愛が価値観の中心」みたいな偏見を含んだジェンダー観があるでしょって、正直思う(もちろん恋愛禁止ルールが辛さのうちの一つであることは否定しないけど)。

あまりにもアイドルの辛さとして、「恋愛禁止ルール」が目立つところにありすぎて、それに隠れているアイドルたちの憂鬱って何なんだろうな、って最近思う。そちらのほうがアイドルの憂鬱の本質なんじゃないかな、って気がするし、『武道館』はそここそ描いて欲しかった(作中にネットの誹謗中傷問題とか体型問題とか出てくるけど、最後の方にはほぼ忘れられる)。

『武道館』がクリティカルなアイドル小説とは到底思えないのは、「恋愛禁止ルール」のその向こうを全く描けてないからだ。正直、『武道館』なんかよりも、HKT指原莉乃の存在の方がよっぽど批評的だと思う。

恋愛禁止ルールの向こう側の憂鬱というものが何かは分からないけど、きっとそれが描けたら、多くのアイドルとアイドルオタクを解放するきっかけになるんじゃないかな、と期待している。