会田誠『性と芸術』感想

会田誠『性と芸術』読んだ。

会田誠はセーラー服の少女をモチーフとした作品など、センセーショナルな作品で知られる現代美術家である。それゆえに森美術館での性的な作品の展示への抗議や大学の公開講座における環境型セクシャルハラスメント裁判など、何かと表現にまつわる騒動に巻き込まれてきた現代美術家でもある。その会田が自作の『犬』を題材に何故性的と思われる作品を作るのかを述べたのが本作である。


会田の『犬』は彼が藝大の大学院に所属していた頃に書かれた作品で、犬の首輪のついた四肢欠損した裸の少女がこちらを向いて微笑んでいるという大変インパクトの強い作品だ(さすがにここに貼るのはやや気が引けるので、各自でGoogleで検索してください)。
会田は狩野永徳『檜図屏風』の大胆な造形性と繊細な視線が同居していることの着想を受け、そこにエロティシズムを見出した。そして、停滞した日本画の打破のため、「悪」として川端康成の陰湿な性と同時代性(ロリコンカルチャー)に取材し、「犬」を作り上げたと会田は語る。
そのうえで、会田は「犬」をマネの「草上の朝食」の孫と位置付ける。マネ「草上の朝食」は現代からするとなんてことない作品だが、裸婦といえば神話絵だった当時としては、ただの娼婦が草の上に裸で座っているというスキャンダラスな作品だったと知られている。


さらに会田は動の表現主義的な作品と比較し*1、自身の作品を静の非表現主義的な作品と位置付ける。つまり、表現主義的な内面を吐露するような作品ではなく、あくまでも純粋な芸術の追求であると位置づけようとしているのだ。つまり、「犬」は自分の性的な興味に基づいて作られたものではなく、ポルノに取材はしているが、美術であると。

会田は本解説を書くことに大分躊躇していたようだが、現代の美術家がステートメントを書くのは不可避であるだろうし、美術史上の位置づけについては十分理解することができるロジックだ。その一方で、表現主義的ではないといいつつ、これだけの自分語りで自作解説を埋めてしまうこと、狩野永徳や川端に会田自身が淫靡なエロティシズムを見出していることを吐露しているわけで、やはり表現主義的な要素を持っていることは否定できないわけで、そのあたりの矛盾は気になってしまう。そのあたりを切り分け出来ない(そしてそれを隠さない)のが会田誠の良さでもあり限界でもあるのだろう。
その一方でまた、後半に収録されている「『色ざんげ』が書けなくて」ではさらに顕著だが、文章中にしばし差し込まれるインターネット上にありふれた凡百なフェミニズム批判には辟易してしまう。

本書内でも少し取り上げられているが現代を代表する現代アーティスト*2であるジェフ・クーンズはイタリアのポルノ女優の国会議員とセックスする《メード・イン・ヘヴン》という一連の写真シリーズを1991年から取り組んでいる。ばっちり接合部まで映っているその大胆さ、タイトルのストレートさと比べると、会田の一連の性的な作品はずいぶん屈折しているといえるだろう。それは本書でも見て取れるように、会田が近代を無理に接ぎ木された日本という国の屈折を追求し続けたゆえのものである。
世の中の流れもあり作品発表が厳しくなりがちな昨今、会田自身もTwitterで大分荒れているように思う。そのあたりは抑えてもらいつつ、私は適切なゾーニングはしつつも、また会田の作品を見て面白がったり顔をしかめたりする日が続くことを願ってやまない。

*1:会田は岡本太郎を例示しているが、アクション・ペインティングの方がしっくりくる気がする

*2:何せ最新のスパイダーマン映画で彼の代表作・バルーンドッグはヴィランに破壊されるのだ。毀誉褒貶はあれど、これが現代を代表する現代アートでなかったから何なのだ

戦時下を生き延びていくということ────コニー・ウィリス『ブラックアウト/オール・クリア』感想

HoI4にハマってしまった話

我が家はゲーム禁止でマリオもカービィポケモンも友達がプレイしているのを眺めているだけの少年時代を送った。一人暮らしになってからは金銭と時間の許す限りはゲームは出来る環境になったが、やはり子供時代に縁を結べなかった後遺症は大きく、ほぼほぼゲームとは縁遠い人生だった。
それが、Steamのセールを知ってから、PCでゲームをするようになった。我が家の低スペックPCでも動くゲームがあると知ったからかもしれない。もともとシミュレーションゲーム系は好きだったこともあり、社会人のお金とともにいつの間にかのめりこんでしまい、大して高くない方とはいえゲーミングPCまで買うことになってしまった。人間何があるかわからないものである。

さて、その中でよくやっているゲームといえば、Hearts of Iron4(HoI4)だ。第二次世界大戦を舞台とした戦略シミュレーションゲームで、プレイ開始時に各国首脳を選択し、その国でWWⅡを戦っていく。当然フランスであれば開始早々ナチスドイツが襲い掛かってくるし、ドイツであれば序盤は無双してもいずれは米ソと泥沼の戦いをしなければならない。
その中でも自分はイギリスでプレイするのが好きだ。ナチスドイツの侵攻に対しフランス戦線を必死に保つのがイギリスの最初の大きな仕事だ。自分はこの世界では未来人なので当然アルデンヌの森に厚く兵を配置するが、思わぬところから突破される。*1
突破されたら最後、ダンケルクから必死に逃げ出し*2、あとはバトル・オブ・ブリテンを始めとする猛攻に耐えに耐え米ソの参戦を待つしかない。独ソ戦の行き詰まったタイミングを見計らいイタリア上陸、ノルマンディー上陸と反撃を加えていく。史実通りでもダイナミックだし、耐えに耐えないと勝利の喜びは来ない。
当然、その過程で多くの死者が出る。ゲーム上ではあくまでも画面上の数字だが、現実では多くの人が耐えに耐え、VEデー(1945年5月9日、欧州戦勝記念日)にたどり着くために努力した。ゲームに対してメタ的なポジションにいるプレーヤーは死ぬことはないが、当然そこにはVEデーにたどり着けなかった多くの死者がいる。その死者の背後には死者を愛する生者がいる。そして、生き残った者は死者を前に自分が死んでいたかもしれないという確率的な死に晒される。*3
コニー・ウィリス『ブラックアウト』『オール・クリア』(この二編は続き物のため以降スラッシュで表記する)は未来人としてロンドン空襲を訪れ、そういった戦火のなかで必死に生き延びるものたちの物語だ。

コニー・ウィリスは長すぎる

コニー・ウィリスはSF界の最高の賞であるヒューゴー賞を11回、ネビュラ賞を7回受賞してるSF界の大家である。件の『ブラックアウト/オール・クリア』も両賞をダブル受賞している。

そんな押しも押されもせぬSF界の大家だが、人に勧めると意外と難色を示されることがある。何故ならやたら長いのだ。日本で彼女の長編作品を読もうとすると分厚い文庫本上下巻ものは覚悟しなければならない。SF界にはスペースオペラものというひたすら長い業界もあるのでそれに比べるともちろん大したことはないのだが、(SFファン以外は)名前も聞いたことない作家の上下巻ものに手を出してくれる率は低い。
実際読み始めると、登場人物たちのやりとりがコミカルでスラスラっと読めてしまうのだが、会話劇のようなものが続き、だんだん単調さを覚えてくるときもある。それでも、つい手を出して読んでしまう理由の一つは、『航路』の終盤で魅せた鮮やかさが忘れられないからだ。ウィリスは『航路』で臨死体験をテーマにとりあげ、死は明確に不可逆な死として存在しつつも、オカルトに陥らない形で「救済」を描いた。*4『ブラックアウト/オール・クリア』は第二次世界大戦を舞台にしたその系譜に位置づけられる傑作と言える。

第二次世界大戦期のイギリスに送り込まれる未来人

『ブラックアウト/オール・クリア』は同作家の『ドゥームズデイ・ブック』と『犬は勘定に入れません』と同じ航時史学生シリーズの作品。とはいえ、作中の一部登場人物と設定が共通しているだけで本作から読み始めても問題はない。航時史学科(要するにタイムトラベル史学科)を舞台に学生や先生が過去にタイムトラベルして色々と奮闘するシリーズだ。
ドゥームズデイ・ブック』の舞台は中世黒死病の時代、『犬は勘定に入れません』の舞台は華やかなるヴィクトリア朝イギリス、そして『ブラックアウト/オール・クリア』の舞台はいよいよ第二次世界大戦期のイギリスだ。

航時史学科の三人の学生はそれぞれの研究課題のため、1940年のイギリスにタイムトラベルする。
メロピーは田舎の屋敷のメイドとして疎開児童を観察するため。
ポリーはデパートの売り子としてロンドン大空襲で灯火管制(ブラックアウト)のもとにある市民生活を体験するため。
マイクルはダンケルク撤退における民間人の「小さな英雄」を調査するため。

彼らは当然未来人なので、危険回避のために様々な戦争の状況を学習して送り出されている。ポリーはロンドン空襲を受けた地点をインプラントで頭に叩き込んでいたし、メロピーだって戦争中空襲がなかったことを確認して疎開先に赴いている。マイクルにいたっては、安全なドーバー側で観測をするはずだった。ところが、歴史のいたずらはそうは行かない。ロンドン空襲を受けた地点の元のデータは当時の新聞であるが、当然当時の新聞は戦中の混乱期&情報攪乱のため、空襲地点は正確な情報ではない。メロピー(この時代ではアイリーンを名乗っている)は成り行きでロンドンに帰省する疎開児童に連れ添うこととなり、バトル・オブ・ブリテンに巻き込まれていく。マイクルは取材した船長の気まぐれで炎の上がるダンケルクに向かうことになる。

タイムトラベル装置の故障で3人が帰れなくなるのはこの手の物語としてはお約束と言えるが、そこからの展開が白眉だ。帰れなくなった3人はこの時代で生き延びていく覚悟を要求される。彼らはいずれ英国はドイツを打ち破り、VEデーを迎えることは知っている。ポリーにいたっては過去のタイムトラベルでVEデートラファルガー広場に赴いたことすらある。だけれども、そのVEデーを迎える一員になることが出来るかは誰にもわからない。もしかしたら、彼らの行動が世界線を変えてしまい、連合国は敗戦してしまうかもしれない。

そういった中で彼らは少しずつ時代の一員となっていく。ポリーが記憶していたロンドン空襲被害箇所も期間(当初の調査予定期間)を過ぎてしまい、どこが空襲されるかわからない状況になってしまう。ダンケルクに向かったマイクルは未来人であるにも関わらず兵士を救ってしまい、その兵士がドーバー海峡を数往復し、多くの兵士を救ってしまう(=歴史を改変してしまう)。メロピーはいたずら好きの疎開児童・ホドビン姉弟を沈没した歴史の残る疎開船にのせないことで救ってしまう。彼らは時代の人とともに生きていくうちに、当初は観察対象であったはずの「小さな英雄」となっていく。そして、時代人とともに必死に防空壕や地下鉄駅に逃げ続け、明日生きているかももわからない日々を過ごす。メタ的なポジションにいたはずの未来人たちが時代人になっていく話でもある。

読者も戦時下のロンドンに引きずりおろされていく

これが映画なら時間的にそろそろ何か奇跡が起こって救われるんだろうな、と思うが、何せ前述の通りコニー・ウィリスの小説は長い。今までの小説も長かったが、『ブラックアウト/オール・クリア』はそれに輪をかけて長い。『ブラックアウト』だけでも上下2巻、続編の『オール・クリア』はさらに分厚い上下2巻だ。この長さが登場人物たちだけでなく、読者にもじわじわと効いてくる。戦争ものとはいえ、そこはコニー・ウィリス、会話はコミカルだし、「神は細部に宿る」が如く*5戦時下のロンドン近郊の生活、そこに生きているユニークなキャラクターたちが事細かに描写される。だけれども、5年も先のVEデーはなかなかやってこない。小説の長さに読者も主人公たちと共にいつか訪れる(はずの)VEデーを待ちわびる忍耐を強いられていく。作中で未来人が時代人の地平に引きずられていったように、読者も時代の地平に引きずられていく小説なのだ。

少しだけネタバレすると、最後はVEデーで人がごった返すトラファルガー広場で終わる。でも、かつてポリーが調査のために降り立ったVEデーと(小説の前半部にそのシーンがある)、耐えに耐えて迎えたVEデーでは全く感慨が違う。韓国の梨泰院雑踏事故を見た直後に、チャーチルがベランダからピースサインをするトラファルガー広場の写真を見ると、雑踏事故が起きなかったのだろうかと心配になるが、VEデーを迎えたロンドンっ子たちの歓喜追体験できる傑作といえる。

この世界の片隅に生きる人々

この世界の片隅に』の片渕監督は映画を作りながら読んだ作品として印象に残ったものとして、このコニー・ウィリスの『ブラックアウト』『オール・クリア』を挙げている。確かに細部まで拘った描写、空襲を受ける銃後の市民の生活と共通点は多い。その一方で、大きな違いはポリーたちの生きる国は戦勝国で、すずさんたちの生きる国は敗戦国ということだ。『ブラックアウト/オール・クリア』で終戦まで生き延びたものは(その陰には生き延びられなかったものと苦難の生活があったとしても)トラファルガー広場でのお祭り騒ぎに参加できた。では、敗戦国は?となったときに、苦難と死者とあり得たかもしれないという確率的な自分の死を抱えたまま俯くしかない。そのやり場のない憤りこそが、敗戦のニュースを聞いた時のすずさんの発言に繋がるのではないか、ということをつらつらと考えてしまう。
両作品とも作品を通してすべて暗いわけではない。明るいところもあれば、暗いところもあり、そこに当たり前のように生活がある。戦勝国にも敗戦国にもこの世界の片隅で生きている人たちがいるという当たり前の事実を改めて突き付けられる両作品だ。

*1:ベネルクスで止めるのに成功したのに、イタリア軍に南仏への侵入をゆるしたりとか……

*2:ゲーム上はよっぽど意図しない限りはダンケルクにはならないが

*3:チャーチルはそういうのに無頓着だったらしいが

*4:もちろん後半の医学的説明はかなり眉唾だとは思うけれども、物語のリアリティを逸脱するような安易な《奇跡》は描かれない。また前半のどうでもよさそうなシーンの伏線を怒涛の勢いで回収していくのも見事である

*5:犬は勘定に入れません』ではこの言葉が最初に引用されている

アイドルと強さは両立しえないのか────笠原桃奈の卒業によせて

笠原桃奈を始めてみたハロプロのオタクたちは誰もがその見た目と年齢のギャップに驚いただろう。ハロプロ研修生の公演の際に撮影された一枚の写真で広く知られる当時12歳の笠原桃奈はとても大人びて見えたし、本人もどこかそれを演出しようとしたのかもしれない。*1


"あの"アンジュルムに12歳で入ってきた大人びた少女

2016年の夏、12歳の若さでアンジュルムに加入した彼女に対して、メンバーもオタクも今一つ距離を測りかねているところがあった。当時すでに動物園と本人たちが自称するほど騒がしいメンバーが多かったアンジュルムに、12歳の若さで一人加入で入ってきた大人びた少女。
初対面から騒々しいメンバーに迎えられ、アンジュルムの新メンバー加入の儀式(?)として、「かっさー」というニックネームをつけられた笠原は大人しいコメントをしていた。デビューシングルの新曲リリースイベントのニコ生内で笠原が一人で笑顔で映った写真を見た竹内朱莉が「こんなに笑顔のかっさーを見たこともない」と突っ込んだこともあった。
加入当初の笠原は終始こういった調子で、こんな大人しい子が一人でアンジュルムに入ってきて大丈夫なのか、誰もが心配したことだろう。*2

そんなオタクの心配をよそに、前年にアンジュルムに改名したグループは上り調子で、2016年秋ツアーが始まった。ツアー初日にツアーの企画として一人MCをこなした笠原は、徐々にグループに溶け込み、ツアー中盤のライブハウスには楽しくて仕方がないと言わんばりのとびきりの笑顔をみせるようになっていた*3。そこには加入当初にはにかむような笑顔を見せていた笠原はすでにおらず、明るくて騒がしいアンジュルムメンバーの一員として溶け込んでいた。
彼女たちに必要なものは時間だけで、オタクの心配は杞憂だったのだ。*4

アンジュルムの大型犬」へ

もともと最年少メンバーにも関わらず体格には一段と恵まれていた笠原は、ステージ上で魅せるパフォーマンスはダイナミックで力強かった。歌についてはもともとスキルがそれほど抜きんでていたわけではないけれども、自信を持ってマイクに歌を乗せてくる笠原の歌はパワフルだったしオタクの印象に残ることも多かったはずだ。

若さと力を有り余して仕方がないかのごとく笠原はステージ上で感情をそのまま身体で表現し舞台を明るくしたし、その後続々入ってきた新メンバー発表のたびに、大きいリアクションで多くの人を笑顔にした。

その人懐こさとも合わせて、ステージ上で大暴れする姿を見て、いつしかつけられた呼び名は「アンジュルムの大型犬」。メンバーも何回か言及していたので公認と言ってもよいと思うが、まさに笠原を体現する呼び名だったと思う。*5

最初の頃は笑顔が堅かった12歳のメンバーはいつの間にか感情をそのまま表現し、自分を出すことで明るい空気を作るアンジュルムの重要なメンバーとなっていった。

自分の好きな色のリップを塗るということ

2018年頃、アンジュルムファンの蒼井優がいいところを問われた際に、「最強のところ」と答えたように、アンジュルムの「強さ」がハロプロ内外でも注目されていた時期だった。

その強さは当時のリーダーであった和田彩花が先頭に立って発信していたわけだが、その印象的なエピソードが笠原のリップ事件だろう。

発端は笠原本人がファンから「メイク、リップが濃い」と言われたことを受けて、ブログで「これからは年相応(にみえるメイクを)目指します」(括弧内は引用者注)と発言したことだ。

アイドルのファンたちが15歳のアイドルに濃いリップを求めているとは確かに思えないし、一般的なアイドルのマネージャーだったら指導をするところだろう。ところが、この頃のアンジュルムひいてはアイドルを巡る環境は変わり始めていた。
まだ直接的な言及は避けていたがフェミニズムなどの影響を受けてリーダーの和田は「女性が自己決定する強くて自由なアイドル」像を目指して模索した発言を始めていたし、かつてモー娘。黄金期を謳歌したこの古いアイドル事務所も少しずつ開かれた方向に向かい始めていた時期だった。

実際、メンバーの佐々木莉佳子は「かっさーの好きなメイクをすればいいよ」とすぐメッセージを送っているし、リーダーの和田はその後のライブのMCで「まわりの眼の気にせず桃奈も自分の好きなリップを塗ればいい」と発言している。そして、何より笠原本人が言う通り、「そのままでいいよ」「気にしないでいいよ」とファンがついてきたことであろう。業界の中では良くも悪くも王道で保守派のハロプロですら、アイドルを巡る環境が少しずつ変わり始めていることを示唆するエピソードだった。

その後、笠原も好きな色のリップを塗ります、と宣言し、リーダーの和田彩花が卒業した際には下記の通り述べている。

もう和田さんにいちいち言葉をかけてもらうことはできないから、これからは自信を持って、なにかに怯えて何もできなくなることはしません
好きな色のリップを塗って生きていきます!笑
和田彩花さん 笠原桃奈 | アンジュルム メンバー オフィシャルブログ Powered by Ameba

強いアンジュルムを大人の和田が発言や姿勢で体現したとするならば、ティーンエージャーど真ん中の笠原は生き方として強いアンジュルムを体現するアイドルになっていた。

ミュージシャンの大森靖子がテレビ番組でアンジュルムに入るとセクシーさを削られて、戦闘力をグッとあげられると話していた。文脈的にも笠原のことを指していたと思しき発言だが、12歳のときに歳に似合ぬセクシーさで評判を読んだ彼女は、今やパワフルさで自己を表現するアイドルになっていた。
女性の表現者が強さを表現する際に性的なものを自らコントロールすることによって強さを表現することはよくあるが、アンジュルムほどセクシャルさに頼らず純粋な強さを表現できる女性アイドルグループは少ないだろう。

感情をありのままにパワフルにステージ上で表現する笠原は「媚びずに自分をそのまま表現する」というアンジュルムの方向性に合致していた。まさにアンジュルムがあってこその笠原桃奈だったし、笠原桃奈あってのアンジュルムだった。

強いアイドルとグループアイドルというアンビバレンツを超えて

ステージでは感情を爆発させるパフォーマンスやリアクションを見せる一方で、笠原は音楽やダンスへの強い拘りも少しずつ見せる用になってきた。蒼井優と菊池亜希子が責任編集を務めたムック本「アンジュルムック」の各メンバーのページでは笠原は洋楽やK-POPと言ったさまざまなジャンルの音楽を紹介しているし、他にもカメラや映画など幅広い関心を持つようになってきていた。

ハロプロ内外から強さを支持されていたアンジュルムはリーダーの和田彩花が卒業した後、あっという間に変わっていってしまう。
和田自身はグループの方向性は残るメンバーたちが決めていくこととして強い要望はしていなかった。
そして、和田から「自分で自分の道を選択すること」を教えてもらい、アンジュルムで強さを得ていったメンバーたちは相次いでグループを卒業していった。
勝田里奈中西香菜室田瑞希船木結……そして2021年6月21日、そこに18歳の若さで笠原桃奈が続くことが発表された。
卒業の理由として笠原は「卒業後は夢を実現させるために海外に身を置き、改めて歌やダンスを学びます。そこで視野を広げ、ステージ上での在り方を学びたいと思います」と述べている。

未熟な子がグループアイドルで切磋琢磨しつつソロでもやっていける力をつけていってグループアイドルを卒業していく、というのはモーニング娘。AKB48、乃木坂まで続くグループアイドルの一つの理想形でもある。
ましてや、和田から自由に自分で決めてよいという思想とグループが内在的につけていった強さを持つメンバーが、新たな夢に向かって飛び立っていくのは当然でもある。先に述べた通り、笠原は音楽やダンスに非常に関心を向けていたからそれを勉強したいと思うのも当然だろうし、とても彼女らしい選択だと思う。

だけれども、和田がいうとおり、笠原がリーダーとなって率いるアンジュルムも見たかったという気持ちも強くある。何故なら、先に述べた通り笠原こそが和田やアンジュルムの強さを体現し引き継いでいける存在であったからだ。笠原の選択を応援したい気持ちもあるけれども、笠原が率いるアンジュルムという叶わなかった未来を夢見てボンヤリしてしまうこともある。
強くて個性溢れるアンジュルムを切り取った「アンジュルムック」をかつて責任編集した蒼井優と菊池亜希子が、笠原桃奈の卒業に合わせて笠原の写真集を企画編集をした話も笠原自身がアンジュルムの象徴であったことを考えれば必然とも言えるだろう。

もしかしたら、強くて自立した女性たちによる格好いいグループアイドル、というアンビバレンツな存在は刹那的にしか存在しないのかもしれない。
だけれども、アンジュルムの卒業ソングの定番楽曲「友よ」にある「友よ 約束しよう 迷ったらここに集合」という歌詞の通り、メンバーの卒業コンサートに大集合して昔みたいに大騒ぎをするアンジュルムOGたちを観ていると、卒業してもみんなアンジュルムなのだ、との思いを強くするのだ。

アンジュルムのメンバーたちが卒業しても「アンジュルム」的な存在であることが先の二律背反を乗り越える一つ回答なのかもしれない。

再び彼女が表舞台に戻ってきて、アンジュルムらしい強さを個人で披露し、そしてまた集合する日が来るのを期待してやまない。

そして明日の卒コンが桃奈にとって、そしてアンジュルムのみんなに良いものになることを願っている。

*1:実力診断テストとして実施された本公演は、自身で衣装等を用意することで知られている。本公演で笠原は清野桃々姫(後にBEYOOOOONDS/雨ノ森 川海)とともにベストパフォーマンス賞を受賞している。

*2:後にラジオで笠原はハロプロ研修生時代の上下関係を体感していたため、最初はアンジュルムメンバーとの距離感が分からなかったと述べている。

*3:ただのオタク語りだが、水戸のライブハウスで比較的前列を確保した私はそこで彼女の眩しい笑顔にやられた記憶が鮮明にある

*4:卒業前に公開された笠原を振り返る企画動画ではこの年の年末にアンジュルムみんなで遊園地に行ったことが溶け込むきっかけになったと述べていた

*5:本人は大型犬の扱いをされることは恥ずかしかったこともあったブログで述べている "野生の呼び声" 笠原桃奈 | アンジュルム メンバー オフィシャルブログ Powered by Ameba

終わりなき凡庸さを生きろ────映画『花束みたいな恋をした』を観た感想とも言えない独り言

先にお断りしておくがこれは映画『花束みたいな恋をした』の感想ではない。『花束みたいな恋をした』というカルチャー好きの若者が語りたくなる要素が満載の映画に乗っかって、公開から半年以上たった今更、自分語りをするものである。すでに若者ではない自分が乗せられてしまうこと自体に悔しさがあるが、それだけに“自分を特別”と思っていた凡庸な人に向けた映画であったので許してほしい。


映画『花束みたいな恋をした』(監督:土井裕泰、脚本:坂元裕二)は2015年に出会った麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が、住を得て一緒に住み、そして2019年に別れるまでの話である。それだけならテレビ局(本作はTBS)が企画し、人気俳優を使った邦画ということで、作中の麦や絹もおそらく見に行かないタイプの映画でしょう(そこにやや皮肉がありますね)。本作がカルチャー好きの心を掴んだのは、作中の麦と絹の人物造形、そして作中に出てくる膨大な固有名詞でしょう。

なんて心が休まらない映画なんだ

お笑いのライブに行き損ねて、明大前で終電を逃したことで出会った二人は、たまたま入ったお店で押井守を見かける。同席していた社会人二人は押井を分からずに『ショーシャンクの空に』と実写版『魔女の宅急便』の話を始めてしまうことに失望する麦。絹が帰り道に「押井守がいましたね」と声をかけたところから恋は始まります。

冒頭をまとめているだけで、腹立つな~~~~~~~~!学生時代に終電逃しても押井守を見かけたり、有村架純と出会あったりしなかったんだけど!!というのは置いておいて、二人の“特別”と思っている意識をくすぐると同時に、絹の押井の評価が「好き嫌いは置いていても、押井守は広く一般常識であるべきです」「世界水準ですよね」というやりとりに象徴されるように二人の“特別”と思っているだけの凡庸であることを表す人物紹介としては素晴らしい描写でもあります。なんやねん世界水準って。

その後、居酒屋に移動した二人は今村夏子や穂村弘が好きなことが分かって意気投合。多和田葉子小川洋子うーん好きそうね、つーか、今舞城王太郎って言った?佐藤亜紀って言った?何がガスタンクだよ、デイリーポータルZかよ。何がミイラだよ。なんで二人とも京王線沿いに住んでるのになんで上野の博物館前で待ち合わせなんだよ、不器用すぎだろ。あと科博デートは常設が広いから時間と疲労に気を付けるんだよ。

とまあ、冒頭のラブラブパートから思い当たる節が多すぎて心が穏やかにならない映画なのですが、多くの人の心を掴んだのはやはり中盤から後半でしょう。

就活戦線に折れる絹。その時、麦が絹に「その人は今村夏子のピクニックを読んでも何も感じない人なんだと思うよ」とかけた言葉はその後二人の呪いになっていきます。
就職が決まらないまま、調布駅から徒歩30分、多摩川の川沿いで同棲生活を始めた二人ですが、フリーターの二人に世間の風は厳しく、広告代理店勤務の絹の両親、長岡で花火師をやっている麦の父から説教され仕送りを絶たれます。「俺の目標は絹ちゃんとの現状維持です」というフィクションの若者の主人公としては珍しいセリフを麦が吐くのがこの頃ですね。その現状維持が一番難しかったわけですが。

仕送りが絶たれたことにより、イラストレーターとして食べていけない麦は、絹の言葉を借りれば「シン・ゴジラが公開され、新海誠が突如としてポスト宮崎駿と言われた」を過ぎた頃に働き始めます。営業職になった麦はだんだん仕事が忙しくなり、絹との約束で行く予定だった舞台の日に仕事が入ったことで二人は喧嘩をはじめます。今村夏子の新作が載った雑誌を本屋で抱えた絹が報告しようと麦のもとに向かうと、自己啓発本を立ち読みしている麦。本を渡しても麦の机の横で積みあがる積読本。出会った頃は文庫落ちしてから、と話していたのに、(お金が出来たので)単行本が積みあがっていくのがリアルですね。

クーリンチェ終わっちゃうよ、と声かける絹の声はむなしく、読んでないゴールデンカムイは積み重なっていき、初任給でせっかく買ったswitchはゼルダの途中までで終わっている。麦とのすれ違いは決定的になっていきます。好きなことを生かせる仕事に転職した絹と喧嘩した麦が「今村夏子のピクニックを読んでも何も感じない人」になったと自分で認めるのが印象的ですね(まあ映画としてそこまで言葉で説明しなくても、とはちょっと思ったが)。
友人の結婚式に出かけた後、思い出のジョナサンで別れ話をする麦と絹。恋愛感情なくなっても結婚して子どもを作ってワンボックスカー買って多摩川を散歩しようよ、と麦が語る言葉が虚しくひびくなか、たまたま近くの席に座った自分たちの昔を観ているような若いカップルが決定打になって二人は別々の道に歩みだすことになります。

別れようと決めてからの二人は、同棲のロスタイムを憑き物が落ちたように楽しく過ごし、新宿でたまたますれ違い、グーグルストリートビューで二人の姿を見つけたところでこの物語は終わります。

感想とも言えない独り言

世代と文化の問題

この登場人物が設定されている年齢よりも7、8歳ぐらい自分は年上なので、正直なところ、出てくる固有名詞にそこまで思い入れがあるというわけではないです。とはいえ、特にカルチャーの記号としてやり取りがされるだけなので別にわからなくてもいいし、間口は広く作られていますね。
そういえば、だからこいつらは固有名詞を記号として使っているだけの"にわか"なんだ、っていう感想を書いている人がいてそれは確かにそうなんですが、今村夏子だけは作家として復帰したというキャリアを含めた上での特別な扱いなので(それに麦もずっとこだわっていた)、そこは外してはならない点だと思います。
これが我々の世代だったらどうなっていただろう、とはちょっと思いましたが、それは劇場版『モテキ』がすでにありましたね。でも、モテキは花束と違って文芸系が弱いので今一つピンとこないところがありますが。『花束』を自分と近い世代で作るとなったら、今村夏子、小山田浩子あたりが川上未映子伊藤計劃あたりになる感じですかね。

会社で仕事をしていく

個人的にはやや麦くんに同情してしまうところがわりとありますね。文化系でもない普通の仕事を始めると、時間の大半を奪い取られるし、気力もなくなってパズドラしか出来なくなるのはいたくわかる。仕事って何だかんだお金も貰えるし、うまくいけば承認も貰えるし、それまで特にGoogleストリートビューの映ることぐらいでしか脚光を浴びることのなかった麦くんにとって仕事が大事になっていったのも痛いほど理解できてしまう。会社は年上の人もいるので、それまで遠い存在だったカッコつきの「幸せの家族」というのがリアリティを持って迫ってくるので、「現状維持」が目標です、と言っていた麦くんが「結婚しよう」と言い始めるの、めっちゃわかるーーーーーー、ってなった。

私自身としてはその時期はアイドルのオタクをやって辛うじて乗り切っていたけど、私も人からおすすめされたけどクーリンチェ殺人事件は行かなかった記憶があるし、ひたすら恋人がゼルダをやっているのを観ている時期もあったので、結構、後半苦笑いの連続でした。

でも、まだ人生これからじゃない?

でも、年上としてやはり一つ言いたくなるのは「まだまだ若いんだし、自分なりの文化との付き合い方を考えていけるのでは」ということだ。

本作はポップカルチャーを消費するこで"特別"と思っている若者に、まざまざと"普通"で"凡庸"であることを突き付けてくる。
だけれども、我々は朝井リョウにも宇佐美りんもなれないけれども、それを何歳になっても読むことは出来る。
凡庸ということはある意味贅沢でもあって、その凡庸さを受け入れたうえで文化との自分なりの距離感を見つけていってほしいな、というのは30代として強く思ってしまった。なぜなら、社会はとても退屈で酷いし、文化はその酷い社会を乗り切るために必要なものなので。

若いころには難しくても、仕事と趣味の折り合いをつけるバランスが30近くなって取れていくこともあるわけです。私もクーリンチェ殺人事件はその後ネトフリかアマプラで観たし、麦くんが部屋に積み上げていた小川哲『ゲームの王国』(2017年の小説)も実は今年になってから読みました。

若い時にはサブカル格好つけで読んでいた本が年をとってから響いてきたり、他のところにリンクしたりする経験もあるし、なんていうか若い時に"文化"と折り合いがつけられなくなったとしても、また戻ってこれるし、それを受け入れる幅の広さがあるものこそカルチャーにはあると思うので。麦も絹もなんとなくつかず離れずでカルチャーと付き合っていってるんじゃないかな、と期待してしまいます。

麦くんも最後、ナレーションで今村夏子が芥川賞をとった話をしていたので、今でもちょっとは読んでいるのかもしれないですね。

Googleストリートビューでしかネット世界でも目立てない凡庸さ、終わりなき凡庸さを頑張って生きてほしい、と強く願わざるをえない映画でした。

すでにエヴァンゲリオンもアスカも必要なかったことに気づいてしまった────『シン:エヴァンゲリオン劇場版』ネタバレ感想

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』観てきました。

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という宣伝文句がこんなに当てはまる感想を持った映画は始めかもしれないですね。

以下、ネタバレ感想

アスカという呪いが解けていく

エヴァは世代的にリアルタイム世代というわけにもいかないけど、TV版と旧劇場版(以下旧劇)は何度も見返したし、自分の存在の一部にガッチリ食い込んでいた。アスカという二次元の少女は私の中で特別な存在であり続けたし、旧劇の最後で「気持ち悪い」と発するアスカという存在の意味と辛さを何度も反芻し、ここまで生きてきた自覚はあります。

新劇場版:破でアスカを見殺しにしたシンジと庵野にぶちぎれたこともある。破の意味が反転する新劇場版:Qの最後でレイとシンジとアスカが赤い台地を歩んでいく姿に旧劇の先の未来を期待していました。

アスカ派として、ずっともやもやしていることが二つありました。
・新劇:破で綾波の前座としての式波の扱いを何とかしてほしい
・あの「気持ち悪い」で終わってしまった惣流をちゃんと補完してほしい。

ところが、今回のシン・エヴァを観た人にはお分かりかと思いますが、びっくりするぐらいその二つのアスカの呪いを解放しました。

ヴィレに戻ったシンジに何故アスカがシンジを殴ろうとしたのか、と問います。
この手の質問はだいたい何を答えても許して貰えないものなのですが、シンジは的確に回答します。
「(アスカが3号機にとりこまれたとき)僕が何も決めなかったから」

分かってんじゃん、バカシンジ。というか、庵野。新劇場版に対して、アスカのオタクがモヤモヤしているところをあっという間にシンジが言葉で解決してしまいました。
というか、言葉で説明されるってこんなに呪いが解けていくものなんですね。

シン・エヴァ自体、「対話」を重視する方針になっているわけですが、アスカに対してもシンジがちゃんと対話し向き合うことで、アスカの呪いを溶かしていく構成になっています。

その頂点が最後のアスカとシンジとの浜辺でのシーンでしょう。旧劇場版の浜辺の続きを思い起こさせるシーンからシンジは「好きっていってくれてありがとう」とアスカに声をかける。これほど、愛憎と結びついた執着を溶かすセリフはないでしょう。先の下りでもそうですが、愛憎は「分かってくれていない」という思いがますます強くしてしまうので、わかっているということは愛憎の連鎖を止める力を持っている。
そのしがらみを正面をもって解決して、ケンスケのもとに送り出す。それは同時にアスカとシンジの旧劇場版からのドロドロした関係の終わりを意味する。

マスターベーション、首絞め、「気持ち悪い」と旧劇場版において、アスカとシンジは性的な関係も含めた共依存的な危うさがあったわけですが、今回のアスカとシンジには性的な関係はありません。
アスカとシンジがそういった危うさを秘めた関係ではなく、大人同士の関係になったということでもあるのでしょう(ここでいう大人が性的でないことは本作では重要な要素になっていますね)。
ケンスケの家では散々半裸に近い恰好をしているのに、シンジに対しては浜辺で破れたプラグスーツに気づいたアスカがシンジに対して隠すのが、アスカにとってのケンスケとシンジへの今の距離感を表しているんでしょうね。

LAS派の供養を終わった後、シンジとマリでカップリング確定するのもパワーがあります。ここでマリという新劇場版で登場した新キャラというのが絶妙です。
まあ、現実的な問題としてレイかアスカとくっつくとどっちかのファンが大荒れになるので、供養のためのシンエヴァと考えると、マリというのはいい落としどころでもあったんでしょうね(安野モヨコ云々についてはよく知らないので何も言えません)。

オタクたちはアスカだ綾波だと言ってきて、レイには母性、アスカには他者性という重いものをの何十年も背負わせていたけど、結局はそんなのとは関係なくマリなんですよ。
とはいえ、人生ってそんなものじゃないですか。

人生ってずっと好きだった人と付き合うわけでもなく、突然出会った人とこれからの人生を歩んで行ったり行かなかったりするわけです。
理由がそこに明確にあるわけではないマリというのが、逆に説得力をもってくる。
オタクたちの怨念が詰まったレイやアスカよりも新劇場版で登場したマリが最後選ばれるというオチは「気づいたら大人なっていた」を象徴するシーンと言えるでしょう。

「気持ち悪い」を回避するために

シン・エヴァは大枠としては旧劇を踏襲していることは言うまでもないわけです。
人工進化を狙うゲンドウ勢とそれを止めるミサト、シンジ、アスカ連合軍が最終決戦を戦い、綾波が母として全てを包み込み、そしてシンジ君が神になり、そして再び他人と出会うことを選ぶ。
もっと言えば、旧劇よりも説明的な描写も多く、同じことをやっていても、もしかしたら単体でみたら新劇場版シリーズの方がわかりやすくて完成度が高い作品なのかもしれないですね。
とはいえ、我々世代は旧劇場版という思い出と長く居続けたせいでシン・エヴァを単体で評価するのは不可能なので、それは後世の世代に評価を任せて、素直に旧劇場版と新劇場版の比較を語るべきなのでしょう。

今回、シンジはオイディプス的な父殺しではなく、父との対話を選びます。旧劇場版では根本的な問題を解決せず、ただ他者の存在を望んだだけだったので結局「気持ち悪い」というアスカのセリフに繋がっていくわけです。ならば、どうすればいよいのか。今回のシン・エヴァが選んだのは「対話」だったわけです。

アスカとの関係は前節で述べたとおりですが、他の人たちともシンジが対話するシーンが目立ちます。
父との関係は電車で対峙することで乗り越えます。といっても、ゲンドウが自分の思いを勝手に語って、勝手に気付いて降りていくわけなので、どこかセラピー的なものはありますが。そう考えると、TV版のラストってあながち外してないのかもしれませんね。

閑話休題、Qではピアノの連弾やエヴァに乗ることでしか表現できなかったカヲルへの好意を言葉で表現します。
ケンスケの父が亡くなったことが、シンジに父との対話を促すきっかけになったわけですが、村でのトウジやケンスケもシンジに対して丁寧に説明をします。

そうした姿勢がシンジくんが「対話」を選択することに最終的に繋がっていくのが、旧劇との大きな違いの一つです。
そもそもQでは誰もシンジに対して説明してくれずシンジが空回っていたわけで、対話がなく状況を悪化させるQと対話で解決するシン・エヴァとの対比になっていますね。
まあ「対話」を選択すれば解決できるのか、という問題はこれまでコミュニケーションのすれ違いをテーマとしてきたエヴァを考えれば安直というか矛盾しているようにも思えますが、そのエヴァだからこそ逆に「対話」を押し出してきた意味があるのでしょう。視聴者としてはアスカのオタクとしてシンジに言語化して説明してもらうことでかなり溜飲が下がってしまったあとだったので猶更説得させられてしまうところがあります。

最終的に「気持ち悪い」を回避したのがシンジくんのこの姿勢にあったことは言うまでもないでしょう。

21世紀の「大人」としてのエヴァ

前作と比較したとき、ゲンドウの目的は大きく変わらないのに対し、本作においてミサト側に生物多様性という明確な目標を掲げられたのが大きな違いです。

新劇場版:破で描かれる海洋生物研究所、ヴィレの支援によって生態系を取り戻しつつあるトウジたちの村。様々な種子を搭載し、宇宙に放出する空中ヴンダー。
これまでミサト側の思想についてははっきりしないところが多かったですが、人類補完計画という名前の通り、人類を中心として考える人間中心主義に対抗するイデオロギーをヴィレは掲げてきたことが旧劇場版との大きな違いですね。

エヴァはずっと個人と個人、社会の関わり方に登場人物たちが悩み、傷ついてきたわけです。そこに人間との関わりだけでない、生物多様性という個人と社会の関係の外部から世界の問題を持ち込んできたのがヴィレという組織の最大の特徴と言えるでしょう。まさに今まで個人や社会の問題に終始していたエヴァの外側に強制的に接続させる役割をになっているわけです。
経済学においては市場経済を単純化図式化して考えるわけですが、市場の外部(例えば環境問題)については"外部性"という概念を用いて考えていきます。比喩としてですが、その市場経済における"外部性"のような役割を生物多様性エヴァにおいて担っていると言えるでしょう。それぐらい今までのエヴァの外側にある概念と言えるでしょう。
ヴィレはその外部まで責任を持つとして21世紀的な「大人」の組織として描かれているわけです。経済学の比喩を延長して言えば、企業のCSR活動的な、と言ってもいいかもしれませんが。

ネルフが目指す人工進化、人類補完計画の元ネタは言うまでなくアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』です。『幼年期の終わり』は、宇宙人オーバーロードにより人類が一体化し人工進化を遂げるわけですが、動物倫理や生物多様性への意識が高まった21世紀の読者が読むと一つの疑問が浮かんでしまうとおもいます。人類は進化したとしても、人類以外はどうなったのか?
SF黄金期の作品(ネルフ)に対して、21世紀的な価値観で挑むのがヴィレという組織として描かれているということも出来るでしょう。

メタ的なことを言えば、GAINAXの作品は最終話はSF作品のタイトルを持ってくるのがお約束だったのは有名な話です。「果しなき流れの果に」(トップをねらえ)、「星を継ぐもの」(ナディア)、「世界の中心で愛を叫んだけもの」(TV版)、「まごころを君に」(旧劇)と言うように。だけれども、本作ではそれは踏襲されなかった。(追記: 「Thrice upon a time」がサブタイトルで使われていると教えてもらいました。J.P.ホーガンの「未来からのホットライン」の原題のようです。ぜんぜん気づいてませんでした)
今回の新劇場版シリーズは、SF大会でのオープニングムービー作成を原点としたオタクサークルの延長としてのGAINAXではないということでもあるんでしょうね。幼年期に終わりをつけ、自ら資金調達を行い大人として挑むカラーとして作成したのがシンエヴァというのを感じました。

本作のネルフとヴィレの対称性は組織構造にも現れている。ユイを媒介として男同士の絆でつながるゲンドウ=冬月を基礎とする旧来型のネルフという組織に対して、ミサトとリツコ、アスカとマリのシスターフッドをベースとするヴィレは組織としても21世紀的な価値観をベースにして描かれているわけです。
特にアスカとマリの関係が印象的ですね。愛憎や性的なものと切り離せない印象があったこれまでのエヴァパイロット同士の関係が、個人と個人の信頼関係(大人の人間関係)として描かれたのは始めてだと思います。

旧劇ではミサトさんをシンジを「大人のキスよ」という言葉で送り出しました。シンジから見たミサトとの関係は、TV版+旧劇では母でもあり姉でもあり恋人かのようであり、どこか未分化な印象はありました。ところが、シン・エヴァではミサトはシンジとのそういう関係と決別し、上官としてのハグでシンジを送り出します。そして、トップとして責任をとることを明確に示す「大人」としてのミサトさんとして描かれています。

ヴィレの支援の下、村での仕事をするトウジやケンスケは勿論、母として子育てをするヒカル。ベタすぎる描写であまり前半部は好きにはなれなかったですが、「大人」を印象づけるには強烈なインパクトを持っています。良くも悪くもやや反出生主義的な空気も持っていた旧エヴァに比べると(当時はそう言う言葉は人口に膾炙していなかったと思いますが)、再生産の描写が描かれたのは強烈ではあります。

イマジナリーで人工的なネルフに対して、21世紀的な「大人」としてのヴィレが打ち破る、というのも旧劇との大きな違いの一つでしょう。

さようなら、すべてのエヴァンゲリオン

最後、シンジはスーツ姿になって神木隆之介の声になって駅のホームに現れる。そして、マリに連れ出され走り出す。

これを「現実に戻れ」「仕事をしろ」と単純に解釈するのはやや違うのかな、とは思います。それならそのまま電車に乗ると思うので。
仕事に行こうとしていたシンジをマリが駅から引っ張り出したので、単純に宇部興産に仕事に行こうとしているわけではないとは思います。
電車を待っていたシンジをマリがその先に連れ出したと解釈すべきなのでしょう。
その後に映る宇部の市街と街並みは仕事・産業を表すと同時に、いかにも庵野秀明が好きそうな工場描写でもあってやや両義的です。
宇部興産は製造業ですが、宇部興産専用道路とかダブルストレーラーとかオタクの好きなものが詰まりまくってる会社ですしね。
余計な邪推をするならば、宇部市出身の庵野の原風景が、興産に出社する大人であったり海辺の工場風景であったりするのでしょう。
この辺りを考えると、「現実・仕事」と「楽しさ」って相反するものではないというところが落としどころなのだと思います。

ここからは個人のぶっちゃけ感想なのですが、エヴァがあろうがなかろうが、マリがいようがいまいが、大人にならないといけないし、明日から生きていかなければならないし、他者と向き合わなければならないし、対話もしないといけないし、その中で楽しく生きていかなければならない。花束みたいな恋をしようがしまいが生きていくしかないんですよ。
そんなこととっくにみんな知ってるんですよ。もうとっくに大人なんですよ。SDGsも大事なフリをしていきているわけですよ。実際大事だし。
具体的にそれをどうするか、にみんな悩んでいるわけじゃないですか。
私自身の関心はとっくにやっぱりそのシンジとマリが走り出した先にある。自分の関心はすでにその先なんだな、と改めて思ってしまったんですよね。

新海誠的な郷愁にひたるのもいいですが、出会えないじゃないですか、『秒速5センチメートル』は。郷愁とは別に、ある日人生を変えてくれる恋人は別のところから現れたり現れなかったりする。
秒速5センチメートル』がいいのは踏切に対して踵を返して歩き出しているところだと思いますが、私たちはシン・エヴァが出来るまでにとっくにその先をよくわからないながらも、歩き始めてしまっていて、もう踏切が見えなくなる次の交差点のところぐらいまで来ちゃっているんですよ。

結局、アスカという心残りが綺麗になったとたん、とっくに自分の中のエヴァンゲリオンという作品が実存にかかるような作品でなくなっていたことに気づいてしまった。

カヲルくんが「すでにシンジくんはイマジナリーな世界ではなく、リアリティーの世界で気づいていたんだね」とシンジくんに言うセリフがまさにその通りで、イマジナリー(エヴァ)よりもリアリティー(現実)で気づいた事の方がとっくにこの10年で増えてしまっているわけですよ。オタクたちが大人になってしまったことに、庵野もある意味自覚的なのであのセリフをカヲルくんに言わせたんでしょうけど。
シン・エヴァに対して言いたいことはまあ色々ないわけではない(あの村の描写はなんなんだとか、線画とかスタジオとかあざとすぎでしょとか、綾波の扱い雑過ぎない?とか)。まあでも私としてはそこまでエヴァに思い入れがなくなっていたことに気づかされたので、熱くあげつらうほどの情熱は特にないな、と、割と他の批判ブログやtwiiterを観ていると正直思ってしまったんですよね。

エヴァは社会や他人と距離感のつかめない10代20代の子供たちが、その距離感を掴むために通って欲しい作品だな、という思いはすごくあります。私の中での大事な思い出でもある。
でも、あれだけ実存に食い込んでいた(と思っていた)エヴァがとっくに通り越してしまった作品になっていたな、というのが一番の感想ですね。
シン・エヴァエヴァの呪縛を解くためのエヴァ、というよりとっくに解かれていたエヴァの呪縛に気づかせてくれるエヴァなのでしょうね。作中の登場人物がエヴァの呪縛から解放されたように。

なので、このダラダラ書いてきた駄文の最後はこの言葉で締めるべきなんでしょう。

さようなら、すべてのエヴァンゲリオン


『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告【公式】

大学生活に悩んだすべての人に観てほしい————『ユニークライフ』シーズン3

Netflixオリジナルドラマ『ユニークライフ』シーズン3が大学生活を送った者として胸に刺さりまくったので紹介したい。

 

自閉症を抱えるサムと家族の物語

『ユニークライフ』、原題は"Atypical"(非定型)。この原題を見ただけでも関心が高い人はピンと来る人はいると思います。そう、自閉症スペクトラム障害をかかえるサムを主人公にしたドラマです。2020年現在、シーズン3まで公開されています。

 

 

『ユニークライフ』はサムの物語ですが、同時にサムと家族のホームドラマという側面も強いお話です。救急救命士の父・ダグ、世話好きで美容師の母・エルザ、そして陸上競技が得意な妹・ケイシ―の4人家族の話が中心。

それにサムのカウンセラーのジュリア、サムのガールフレンド・ペイジ、サムのバイト先の同僚兼ベストフレンドのザヒード、ケイシーの恋人・エヴァンあたりがメインの登場人物でしょうか。

 

大学に進学するシーズン3

 

シーズン1、2までは高校生だったサム。同じ自閉症自助グループの子たちに刺激を受けて、大学進学を決意します。そして、シーズン3はいよいよ大学に進学します。

 

 

しかし、大学入学前に自閉症の学生のうち5分の4は大学を4年で卒業できていないことを知ったサム。5分の4という数字に囚われたサムは履修登録がうまくいかなかったことを理由にガールフレンドのペイジに八つ当たり。妹のケイシーに諭され、サムはペイジに謝罪し、ペイジからは「あなたは5分の1になるんだから」と説得されます(それに対するサムの答えは「論理的ではない」ないですが笑)。

大学はカリキュラムも複雑で双方向型の授業も増えてきます。友達との情報共有やコミュニケーション力が大学生活を生き抜く鍵になっていくのは言うまでも日米問わずでしょう。
また大学には今まで学校でサムをサポートしてきてくれたケイシー(ケイシーが陸上推薦で転校する際には何度もサムがクローズアップされた)や別の大学に進学するガールフレンドのペイジもいません。不安になるのも無理はありません。

大学生活の躓き

入学したサム。先輩主導のオリエンテーションに不安を覚えていたサムは、最初の自己紹介を兼ねたレクリエーションを先輩に直電してきいたテクニックで乗り切ります。その受け答えを気に入ったノリのいい同級生に声を掛けられ、「友達が出来たんだ」と舞い上がるサム。友達に誘われ支援のための面談の予定をすっぽかし、友達とご飯を食べに行きます。
順調なスタートを切ったサムは、家に帰った途端、「寮に入りたい」と宣言。両親の大反対にあいます。
寮入りを応援するケイシーと一緒に寮に見学に行ったサムは、そこで例の"友達"と再会するもバリカン罰ゲームの真っ最中。当然、サムは"友達"に名前も覚えてもらえていないというオチ。口は悪いですが、イジメに対しては厳しいケイシーが"友達"に辛辣でよかったですね。
その後、いろいろと大学生活に行き詰ったサムは支援グループの門を叩きます。そこでは、馴染みのグループの仲間たちが待ち構えており、支援を受けることでサムは再び大学生活に向き合いはじめます。

『ユニークライフ』シーズン3はこういう大学生活の「小さい躓き」の連続です。サムはちゃんと躓きと認識し、向き合って乗り越えていくのがこのシーズン3です。大学のこうした仕組みには戸惑いや小さい躓きを覚えている人も多いと思います。「あっ、自分の大学生活ここで失敗したな」とか「ここは運よく友達のおかげで乗り越えられたな」とか色々思いだしてしまいます。

 

みんなが躓く物語

 

『ユニークライフ』は自閉症スペクトラム障害を持つサムを中心とする物語ですが、サム以外の人たちも何か少しずつミスを犯していきます。
サムの父のダグは、過去にサムに向き合うことが出来なかったことがあり、そのことは夫婦関係に暗い影を落としています。母のエルザは、シーズン1で浮気をしたことが、離婚騒動はシーズン3まで尾を引いています。エルザは浮気騒動の際にダグが空けた穴を塞ごうとして、携帯電話を壁の隙間に落としてしまうなど、おっちょこちょいな面も頻繁に描かれています。
美人で運動神経抜群の妹・ケイシーは勝ち気が強く、暴言に怒り暴力事件を起こしたことが転校先まで伝わっています。チューバを盗んで学校を退学になったケイシーの恋人・エヴァンは、ダグに頼み込んで実施してもらった救急救命士の試験をすっぽかします。ジュリアはサムを𠮟責したことにより、サムのカウンセラーから外れます。そして、ペイジはサムにテレビ電話(zoom?)で「大学生活はうまく行っている」とアピールしながら、実際は全然うまく行っておらず、ある日中退し故郷に戻ってきます。そう、自閉症スペクトラム障害という診断をされていない人でも、躓くのが大学ひいては人生の難しさでもあります。

ペイジはちょっと変な子ですが、とても優しい子として作中で描かれています。サムとは付き合ったり別れたりと一般的な恋人関係にはなかなか当てはまらない関係ですが、サムのためにサイレントの卒業パーティーを開いたり、サムの卒業アルバムの寄せ書きに悪口を書かれたことを知ると、自分のことのようにブチ切れます。
確かにちょっと空気が読めない優等生が、大学での友達とのコミュニケーションに躓き、挫けるのも容易に想像できます。サムにペイジがテレビ電話越しに「ルームメイトが寮ネズミって言われているのよ、ひどいでしょ」って言ったあと、Macbookを閉じたペイジの寮の部屋にはペイジを除いて誰もいないという映像はインパクトがあります。そして、廊下に出たペイジは寮の仲間に「寮ネズミ」と言われます。そうペイジがルームメイトの話としてサムに伝えた話はペイジ自身の話でした。

本当はペイジもカウンセラーなどによる支援が必要だったのでしょう。だけれども、ペイジを救う人は大学に誰もいませんでした。

 

支援を受けられる強さ


シーズン3は自分の障害と向き合い適切な支援を受けられ、そして抽象的な課題に躓きながら取り組んでいくサムの強さが印象に残ります。寮生たちによるからかいに対して暴力事件を起こしたことで大学を退学し、故郷に帰ってきたペイジはサムの運転手や飲食店でのバイトで糊口をしのぎます。落ち込んでいるペイジですが、負けず嫌いを発揮して来年公開予定の新シリーズでは新たな活躍が見られるのではないでしょうか。

シリーズ3は看護学校の試験をすっぽかしたザヒードを試験のため連れ戻すサムが奮闘するエピソードで終わります。ザヒードが看護学校に進むよう手を尽くしたサムは、「看護学校で失敗させない」と言うザヒードとの約束を守るためにサムは奮闘します。そう言葉通り受け取るサムだからこそ。ザヒードもサムの支援が必要なのです。

大学など高等教育機関を卒業するのは言うほど簡単ではないです。簡単だったよ、という人もいるでしょうが、その人にとって簡単だっただけで、中等教育とはまた違う制度に"躓く"人も少なからずいます。『ユニークライフ』は自閉症スペクトラム障害を持つサムの成長物語ですが、幅広い人にも当てはまる内容です。支援が必要な時にちゃんと支援を受けられる大事さと難しさ、適切な支援を要請できるサムの強さが印象的なシーズン3でした。

「のぼる小寺さん」とアイドルと映画

「のぼる小寺さん」は不思議な青春映画だ。

ボルダリングという今時なスポーツを題材とした元女性アイドルと若手の男性俳優が主演する漫画原作の映画……と聞くと「あーはいはい。いわゆるアイドル映画ね」となってしまう人も少なくないだろう。
私も映画館で予告編を仮に見たとしても、「へー吉田玲子って実写の脚本もやるのか」以外の感慨を覚えないだろうし、映画が終わったあとには題名すら覚えてないと思う。だけれども、私にはこの映画を見に行かないとならない理由があった。その主演する元女性アイドルが元モーニング娘。工藤遥だからだ。

工藤遥さんについては多くの言葉はいらないだろう。モーニング娘。に2011年に加入。人気を博し中心メンバーとして今後を期待されていた2017年にモーニング娘。を卒業。卒業後はテレ朝戦隊シリーズ「ルパンレンジャーvsパトレンジャー」の早見初美花役など女優として活躍している。モーニング娘。時代からの工藤遥のファンとして、初主演映画を観に行かないわけにはいかない。そういうわけで、公開翌日の映画館に足を運んだ。


不思議な小寺さん

「のぼる小寺さん」は壁を登り続ける小寺さんの物語だ。それと同時に小寺さんをめぐる周りの物語だ。というより、後者の重きが大きい。
小寺さんは常に壁を登り続けている。それ以外で小寺さんが自発的に何かをしているのは旧園芸部の庭の手入れをしているときと黙々とラーメンを食べているシーンぐらいではないだろうか。「のぼる小寺さん」はのぼる小寺さんが変わっていくというよりも、のぼる小寺さんを見る人たちが変わっていく話なのだ。

原作を読んだとき、壁を登り続けている小寺さんは正直言えばよくわからないキャラだった。映画の作中でも噂好きなクラスメイトに「小寺さんって不思議ちゃんだよね」と囁かれている。
会話のリアクションなどワンテンポ遅く、球技が苦手という描写もされている。心理描写もほぼ描かれることもなく、黙々と壁を登っている印象が強い女の子だ。
分かりやすい「成長」「仲間」「恋愛」も小寺さんについてはそれほど積極的には描かれない(もちろん作中でこれらの要素も描かれてるが、不器用で表立って描かれることは多くはない)。不思議な青春映画だった、という印象はここからくるのだと思う。

トークなども軽妙に返す明るい女子としてのイメージが強い工藤さんが何故この不思議な女の子の役を射止めたのだろう、とやや不思議に思ったのは覚えている。しかし、観終わったとき、小寺さんを演じるのは工藤さん以外にいないという確信に変わった。

小寺さんを観るカメラ

話は変わるが、例えばボルダリングをテーマとした青春映画を作るとなったら終盤の盛り上がるシーンにどういった演出を持ってくるだろうか。
大会の最後の最後で挫折しそうになった主人公の内面描写をまずは入れる。そして、苦しそうな表情になっているクライマーの表情を上から撮影するだろう。自分なら予算がないと言われても、無理にドローン撮影をお願いする。
そして、心が折れかけているクライマーに、応援している観客の声が届く。それによって発奮したクライマーは、仲間たちへの感謝の思いとともに最後の壁を乗り越える……世間の人の95%はそうしたシナリオを予想するはずだ。

ところが、「のぼる小寺さん」にそうした描写はない。映像はのぼる小寺さんを常に下から撮っている。これは終盤の大きな盛り上がりとして描かれているクライミング大会の最後のクライミングでも、作中で印象的なエピソードとして描かれている学校でのクライミングでもそうだ。
別にクレーンやドローン撮影をするお金がなかったわけではないだろう。そのカメラの目線は常にのぼる小寺さんを見る人たちの目とともにあることに意味がある。

壁を登り続ける小寺さん

壁を登り続けている小寺さんには力がある。ひたむきに壁を登り続ける姿は人を魅了する。
カメラが趣味の文化系の女の子・田崎さんは小寺さんを撮り続けることで写真撮影の世界で新たな一歩も踏み出す。学校をさぼりがちだった倉田さんは放課後にネイル教室に通い始める。何となく楽そうな運動部という理由で卓球部に入った近藤くんは卓球をひたむきに頑張り続ける。
そう、小寺さんは(物理的な)壁を登り続けていることで、周りの人を(比喩的な)壁に上らせるのだ。「のぼる小寺さん」はのぼる小寺さんの物語でもありながら、「のぼる小寺さん」を観る人達の物語でもあると述べた理由はここにある。カメラがのぼる小寺さんを観る人達と同じ目線で小寺さんを捉えていた理由も。ひたむきに登り続けることは人を動かす力がある。

そして、小寺さんと小寺さんを観る人たちの関係は、アイドルとアイドルを観る人たちに似ているな、と思った。

ハロプロハロプロのファン

工藤遥さんが所属していたモーニング娘。ハロプロの一グループだ。ハロプロハロプロのファンたちはパフォーマンスを重視する。そのことに時々疑問を覚えることはある。今のアイドルの歌やダンスをちゃんと見ている世間の人なんてどれぐらいいるのだろう。アイドルを卒業した後に商業ベースで歌を続けられる人が何人いるだろう。彼女たちの芸能人としてのステップアップに一糸乱れぬフォーメーションダンスなんてものが何の意味があるのだろう。ラジオ番組で明石家さんまトークすることの方が2000人しか入らないホールで喉を潰しながらコンサートをすることより意味があるのではないか。

しかし、モーニング娘。在籍中の工藤さんがそうであった通り、ハロプロのメンバーは何かことあるごとにパフォーマンスの向上を語る。あの曲でもっと大人っぽい表情を魅せられるようになりたい、しなやかなダンスを踊れるようになりたい、力強い高音を出せるようになりたい……メンバーはひたむきに努力しパフォーマンスを向上させていき、ファンはそれを喜ぶ。それがハロプロのメンバーとファンの関係だ。

小寺さんと工藤遥

歌やダンスのスキルが向上したところで、握手会の時間が伸びるわけでもなくファンにとって何か利益が出るわけではない。もっと言えば、誰かの利益になるわけでもない。だけれども、メンバーが努力し高いパフォーマンスを見せることで、ファンも生きる気力をもらう。まさに目の前の壁を登ることに意味があり、そしてそのことが周りの人たちにとって希望になっていく。

そう考えると、本作のちょっと変わった主人公・小寺さんを元アイドル・工藤遥が務めた理由が見えてくる。まさに目の前の壁を登り続けることで、周りに人たちを動かし続けてきた人だからだ。

その意味においてまさしく「のぼる小寺さん」は正しくまっとうなアイドル映画ともいえる。そう、アイドルが演じることに意味がある映画こそアイドル映画だ。

進路指導調査票に「クライマー」と書き、先生にもっと現実的な進路を書くべきだと諭されたとき、小寺さんは「嘘を書くんですか?」とまっすぐ見つめ返した。
先生からすればもっと役に立つ進路を書いて欲しかったのだろう。
だけれども、一見なんの役にも立たず何の利益をもたらさないものでも、ひたむきに頑張り続けること自体に意味があり、そしてその努力に周りを動かす力がある。
そのことを改めて教えてくれる青春映画だった。