アイドルと外見至上主義――アイドルの残酷さとは

 

*リベラルとアイドルの相性の悪さ

 

 ちょっと周回遅れな話題ですけど、HKT48の「アインシュタインよりディアナ・アグロン」という歌詞が女性差別的だと話題になりました。ディアナ・アグロンとは「glee」に出てくるクィンという女性を演じた女優さん。「glee」は、スクールカーストからハブられているようなマイノリティたちが、歌や踊りを通して自己表現することを肯定する価値観を持った作品です。言わば、社会的な役割から解放されることを肯定しているわけだから、以下のまとめで最初に指摘されているgleeが訴えた思想と正反対というのは頷ける。
http://matome.naver.jp/odai/2146033391996228201

 

 最も、作中でクィンの立ち位置って、元々グリー的なものと対極だったわけで、もうちょっと話は複雑だと思うし、作中におけるクィンという役について色々考えるきっかけになったので、まあそれはいつかの機会に(期待はしないでください)。

 

 アメリカのドラマってポリティカルコレクトネスというか作中でかなりの確率でセクシャルマイノリティが出てきたりするものだけど、「glee」はその中でもリベラルな価値観を全面的に押し出している作品です(特にシーズン2以降、そうした側面が強調されるようになったイメージ)。

 

 今回、特に炎上したのはそういったリベラルな価値観を持った人たちから、AKB48グループに対する反感が強かったからという印象はあります(それとは別にネット上では二次元界隈からのAKBへの反感が強いけれども、今回は置いておきます)。ただ、今でこそAKBがアイドルへの批判・反感の矢面に立ってくれていますけど、これが15年前なら批判の矢面に立ったのはモーニング娘。であっただろうし、基本的にリベラルな人たちからのアイドルへの反感(特に女性アイドル)は根強い。

 

 実際問題、女性アイドルはセクシズムと外見至上主義の悪魔合体みたいなところあるし、こればかりは否定しづらい。さらに言えば、加入-卒業を繰り返すハロプロ、AKBといったあたりは、「女性は若い方がいい」といった価値観を肯定している側面もあるし、リベラル的にはかなり旗色が悪い。ももクロが「5人は嵐を目標にする」と公言しているのも、こうした価値観への反発から来るものだろうし、実際頑張ってもらいたいと思います。

 

 女性アイドルのそうした側面から逃れられないということを前提に、そうした批判から少し逃げるために、今回は外見至上主義という点に注目して、逃走線をこの記事では考えてみようと思います。

 

*外見至上主義から逃れるためには

 

 アイドルのファンは「そのアイドルが好き」と語る。これを他のエンターテイメントやスポーツのファンが「◯◯」が好き、と語ることとの違いを少し考えてみます。
例えば、野球ファンはあるプロ野球選手が好き、と語った時に、一般的に好きなのはそのプレイが好きと解釈されると思います。川相選手が好き、と語った場合(例が古い)、いぶし銀な選手が好きなんだな―、という印象を受けるでしょう。
歌手のファンはもちろんその人の“歌”が好きというであろうし、小説家のファンはその小説家の小説が好き、とニアリーイコールと解釈されると思います。要するにアイドル以外のエンターテイメントやスポーツのファンはそのスキルやスキルによって生み出されたもののファンと言い換えることも出来ると思います。

 

 それに対して、アイドルのファンはその「人」が好き、とはっきり公言している人たちでもあるんですね。これは、結構特異なことだと思います。その「人」が歌やダンスかもしれないし、容姿かもしれないし、発言かもしれないし、性格かもしれない。その全てを包摂して(逆に言えばあえて分節化せずに)、アイドルのファンは「そのアイドルを好き」「◯◯推し」と語っているわけです。

 

 アイドルファンの「推し」とは、「人」全体に対する肯定とも言い換えることが出来ると思います。もちろん、それには容姿も重要な要素として含まれているのは否定できません。というよりも、容姿が重要な要素として含まれているからこそ、外見至上主義といった反発をアイドルオタクはリベラルな人たちから受けることが多い。

 

 だけれども、わたしたちはある有名人のファンと言った時に、スキルと容姿を分節化して考えることが出来るでしょうか。
映像・写真メディアが大きく発展した現代において、私たちがその人のファンであるといったときに、スキルとその人の容姿を分節化して捉えることはかなり難しいように思います。
 その最たる例が女子アナでしょう。本来であれば、(もし女子アナを純粋にスキルだけで判断するならば)アナウンス能力だけで判断されるべきなのだろうけど、評価には容姿が大きく関わってきてるのは否定出来ないでしょう。


 そうした例は、俳優・女優、歌手、声優、スポーツ選手……様々なところにこうした現象は見られます。一見、無縁にみえる小説家でさえ、京極夏彦ダ・ヴィンチの表紙になれば売上部数が伸びるらしいし、美人で知られる川上未映子は小説誌の表紙を飾ったわけです。世間ではこれを「アイドル"的"」な売れ方なんて表現されたりもしますけどね。

 

 先述したとおりに、大きくメディアが発展した現代において、容姿とスキルを分節化するのは難しいし、それを悪だと断じるつもりはありません。要するに、現代人は無自覚に外見至上主義というある種の暴力を振るうことから逃れられないのだと思います。

 

 では、アイドルはどうでしょう。先に述べた通り、「◯◯推し」という表現に、容姿も好きという意味合いもくっついてきます。アイドルは容姿で評価されることをある程度は前提で共有されているとも言えます。前提で共有されているからこそ、逆説的に先に述べたような無自覚に振るう外見至上主義の暴力からはある程度逃れられるのでは?という思いもあります。


 アイドル界隈は、アイドルとアイドルオタクの間で「かわいい」と容姿を形容することが相互了解としてあるがゆえに、アイドルに向かって「かわいい」って言える安心感はあります。これを外見至上主義だ、と批判することは出来ると思いますが、少なくとも「暴力的だ」とは言いづらいとは思うのです。

 

 自分の話になるのですが、何らかの能力を持っている人が容姿を評価して欲しい、と本人が言ってもないのに、容姿を評価するってのは結構個人的には苦手です。浅田真央さんの演技は確かにすごいとは思うけど、メディアまわりの扱いはかなり苦手です。アイドル評論家・中森明夫ゼロ年代最強のアイドルは浅田真央(ドヤッみたいなこと言ってて、ある意味正しいとは思いますけど、同時にこの辺りの暴力性に無自覚な辺りは嫌いです。

 

 とキレイ事を言ってみても、アイドル周りにはアイドルが容姿でランク付けされたりとか、誹謗中傷に晒される現実もあります。


 リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』の序章で「残酷さこそ私たちがなしうる最悪なことだと考える人々こそが、リベラルである」とジュディス・シュクラーをひいてドヤ顔で言っています。


 朝井リョウの『武道館』の冒頭で、ぽっちゃりアイドルの子を肯定しようとした試みがありましたが、そういった形でアイドル界隈の「残酷さ」を軽減していく試みを続けていくことは大事だと思います。

 

P.S.ある記事への違和感として、この記事書いてみたけど、次からは工藤遥ちゃんが可愛いとかアンジュルムの新曲が楽しい、とか、そういう楽しい記事書きたい。

(注:次は期待しないでください)

アイドルと恋愛とその向こう側――朝井リョウ『武道館』について

朝井リョウ原作、Juice=Juice主演のドラマ『武道館』がフジテレビで始まった。その翌日にモーニング娘。鈴木香音が今春をもっての卒業を発表した。ただの偶然なんだけど、『武道館』の作中で香音ちゃんをモデルとした登場人物が出てくる(ぽっちゃりキャラで、インターネットで叩かれている)だけに、妙な因果だな、と思った。

 

さて、『武道館』はアイドルの恋愛描写があるこということで、アイドルファンたちの間で話題になっていた。ドラマの番宣でもアイドルにとって禁断の恋愛がテーマなことは強調されているし、実際原作も読んでたから、この後恋愛展開があることも知ってる。普通に恋する宮本佳林ちゃんの演技、めちゃくちゃかわいいだろうし、今後も楽しみ。

 

《以下『武道館』のネタバレがあります。未読で気にする方は気をつけて下さい》

 

『武道館』の主人公の愛子は、幼馴染の大地との恋愛が発覚して、結局アイドル辞める。しかし、その後アイドルの意味が転換して、アイドルが恋愛も含めて表現することを肯定する社会になった未来が描かれて『武道館』は終わる。

それ自体は素晴らしいと思う。『武道館』という作品は恋愛禁止っていうアイドルへの抑圧的な空気への批判はもちろんあるんだけど、同時に歌って踊るアイドルへの肯定も含んでいる。愛子は子供の頃から大地とアイドルが好きで、それが両立しないことの理不尽さを訴えている。もちろん、その願いは短期的には叶わないのだけど、アイドルが自分をステージ上で自由に表現をする社会に変わっていく理想像が託された作品とも言えるだろう。

アメリカのドラマ『glee』で、グリークラブとは歌と踊りで自己を表現する場だみたいなことをシュー先生がどっかで言ってて、実際作中では様々なマイノリティが自分らしく表現することを肯定的に描いてる。多分、朝井リョウの理想のアイドルとして、ああいうのが(本人は意識していないのかもしれないけど)、あるのだと思う。

 

もちろん、何かと制約の多いアイドルが自分らしくを素直に表現できる社会になったら素晴らしいとは思う。 でも、同時に『武道館』に感じたのはアイドルが恋愛を解禁すれば「自由に」「自分らしく」を表現できるようになるという陳腐さだ。

 

アイドルにある辛さの象徴として、朝井リョウは「恋愛禁止ルール」を中心に描いてみせたわけだけど、本当にそれがアイドルの辛さの中心なのかな、って最近とみに思う。

 アイドルの恋愛禁止について、どう思いますか?みたいな質問はテレビのバラエティ番組や下世話な雑誌でよくあるのだけど、本当に下世話だな、って印象しかない。アイドルたちがステージ上で、(テレビやネットも含めた)メディア上で、歌い踊り語り、様々なことを表現している。そのことに対して、敬意も払いもせずに、いきなり恋愛のことについて、聞くインタビュワーって普通にアイドル舐めていると思う。

歌手や女優や楽器演奏者でもいいけど、普通に何かの表現者に対して仕事上のインタビューで休日はどう過ごしてますか?ぐらいならともかく、恋愛についてプライベートで聞くことはまずないだろう。でも、それがアイドルの場合、何故そんな失礼なことが行われるかというと、「禁断のマル秘トーク」みたいにセンセーショナルな感じがするからだ。

でも、アイドルが恋愛すればセンセーショナル、という考え方時代が、ものすごい陳腐だし、ベタだ。今までも散々描かれているし、何を今更っていう感じさえもする。

 

アイドルの辛さの中心として「恋愛禁止ルール」を無条件にあげるのは、無意識のうちに「10代、20代の女の子は恋愛が価値観の中心」みたいな偏見を含んだジェンダー観があるでしょって、正直思う(もちろん恋愛禁止ルールが辛さのうちの一つであることは否定しないけど)。

あまりにもアイドルの辛さとして、「恋愛禁止ルール」が目立つところにありすぎて、それに隠れているアイドルたちの憂鬱って何なんだろうな、って最近思う。そちらのほうがアイドルの憂鬱の本質なんじゃないかな、って気がするし、『武道館』はそここそ描いて欲しかった(作中にネットの誹謗中傷問題とか体型問題とか出てくるけど、最後の方にはほぼ忘れられる)。

『武道館』がクリティカルなアイドル小説とは到底思えないのは、「恋愛禁止ルール」のその向こうを全く描けてないからだ。正直、『武道館』なんかよりも、HKT指原莉乃の存在の方がよっぽど批評的だと思う。

恋愛禁止ルールの向こう側の憂鬱というものが何かは分からないけど、きっとそれが描けたら、多くのアイドルとアイドルオタクを解放するきっかけになるんじゃないかな、と期待している。