アイドルと恋愛とその向こう側――朝井リョウ『武道館』について

朝井リョウ原作、Juice=Juice主演のドラマ『武道館』がフジテレビで始まった。その翌日にモーニング娘。鈴木香音が今春をもっての卒業を発表した。ただの偶然なんだけど、『武道館』の作中で香音ちゃんをモデルとした登場人物が出てくる(ぽっちゃりキャラで、インターネットで叩かれている)だけに、妙な因果だな、と思った。

 

さて、『武道館』はアイドルの恋愛描写があるこということで、アイドルファンたちの間で話題になっていた。ドラマの番宣でもアイドルにとって禁断の恋愛がテーマなことは強調されているし、実際原作も読んでたから、この後恋愛展開があることも知ってる。普通に恋する宮本佳林ちゃんの演技、めちゃくちゃかわいいだろうし、今後も楽しみ。

 

《以下『武道館』のネタバレがあります。未読で気にする方は気をつけて下さい》

 

『武道館』の主人公の愛子は、幼馴染の大地との恋愛が発覚して、結局アイドル辞める。しかし、その後アイドルの意味が転換して、アイドルが恋愛も含めて表現することを肯定する社会になった未来が描かれて『武道館』は終わる。

それ自体は素晴らしいと思う。『武道館』という作品は恋愛禁止っていうアイドルへの抑圧的な空気への批判はもちろんあるんだけど、同時に歌って踊るアイドルへの肯定も含んでいる。愛子は子供の頃から大地とアイドルが好きで、それが両立しないことの理不尽さを訴えている。もちろん、その願いは短期的には叶わないのだけど、アイドルが自分をステージ上で自由に表現をする社会に変わっていく理想像が託された作品とも言えるだろう。

アメリカのドラマ『glee』で、グリークラブとは歌と踊りで自己を表現する場だみたいなことをシュー先生がどっかで言ってて、実際作中では様々なマイノリティが自分らしく表現することを肯定的に描いてる。多分、朝井リョウの理想のアイドルとして、ああいうのが(本人は意識していないのかもしれないけど)、あるのだと思う。

 

もちろん、何かと制約の多いアイドルが自分らしくを素直に表現できる社会になったら素晴らしいとは思う。 でも、同時に『武道館』に感じたのはアイドルが恋愛を解禁すれば「自由に」「自分らしく」を表現できるようになるという陳腐さだ。

 

アイドルにある辛さの象徴として、朝井リョウは「恋愛禁止ルール」を中心に描いてみせたわけだけど、本当にそれがアイドルの辛さの中心なのかな、って最近とみに思う。

 アイドルの恋愛禁止について、どう思いますか?みたいな質問はテレビのバラエティ番組や下世話な雑誌でよくあるのだけど、本当に下世話だな、って印象しかない。アイドルたちがステージ上で、(テレビやネットも含めた)メディア上で、歌い踊り語り、様々なことを表現している。そのことに対して、敬意も払いもせずに、いきなり恋愛のことについて、聞くインタビュワーって普通にアイドル舐めていると思う。

歌手や女優や楽器演奏者でもいいけど、普通に何かの表現者に対して仕事上のインタビューで休日はどう過ごしてますか?ぐらいならともかく、恋愛についてプライベートで聞くことはまずないだろう。でも、それがアイドルの場合、何故そんな失礼なことが行われるかというと、「禁断のマル秘トーク」みたいにセンセーショナルな感じがするからだ。

でも、アイドルが恋愛すればセンセーショナル、という考え方時代が、ものすごい陳腐だし、ベタだ。今までも散々描かれているし、何を今更っていう感じさえもする。

 

アイドルの辛さの中心として「恋愛禁止ルール」を無条件にあげるのは、無意識のうちに「10代、20代の女の子は恋愛が価値観の中心」みたいな偏見を含んだジェンダー観があるでしょって、正直思う(もちろん恋愛禁止ルールが辛さのうちの一つであることは否定しないけど)。

あまりにもアイドルの辛さとして、「恋愛禁止ルール」が目立つところにありすぎて、それに隠れているアイドルたちの憂鬱って何なんだろうな、って最近思う。そちらのほうがアイドルの憂鬱の本質なんじゃないかな、って気がするし、『武道館』はそここそ描いて欲しかった(作中にネットの誹謗中傷問題とか体型問題とか出てくるけど、最後の方にはほぼ忘れられる)。

『武道館』がクリティカルなアイドル小説とは到底思えないのは、「恋愛禁止ルール」のその向こうを全く描けてないからだ。正直、『武道館』なんかよりも、HKT指原莉乃の存在の方がよっぽど批評的だと思う。

恋愛禁止ルールの向こう側の憂鬱というものが何かは分からないけど、きっとそれが描けたら、多くのアイドルとアイドルオタクを解放するきっかけになるんじゃないかな、と期待している。