首都大学東京とはなんだったのか――「改革」の検証を学生の視点から

小池百合子率いる都民ファーストの会が「首都大学東京」を都民に親しみやすい名称に変更することを検討しているそうだ。

東京都立大学に戻すのか、都民ファースト大学東京になるのか知らないけど、一首長の気まぐれでころころと名称変更させられる公立大学の危うさを再び思い起こさせる話だ。
昨今、地方私立の公立化などで地方の公立大学の存在感が高まっていると対照的に、
大阪府立大学大阪市立大学横浜市立大学といった大都市の伝統ある公立大学ポピュリズム地方政治の影響もあり激動が続いている。

かく言う私も首都大学東京に2006年4月から2012年3月まで在学した(引き算してはいけない)、れっきとした首都大学東京OBである。
首都大*1は2005年に開学したので、首都大2期生ということになる。
首都大は改名したのではなく、新規に開学したという建前なので、自分が入った時は3年生以上は都立大生というまさに移行期だった*2

インターネットで都立大改革で検索すると、首都大開学前に記載された新大学構想に反対するサイトが多くヒットする。
もちろん、これらは都立大改革が大学内の反対をいかに押し切ったか、あるいは首都大学東京がいかなる構想に基づいて計画・立案されたかの貴重な資料であるが、
首都大開学後に首都大の実情を踏まえた大学論を書いている記事は多くない。

そこでインターネットのはしっこに、首都大改革の結果が一学生からどう見えていたのかを書き残しておこうと筆をとったのが本記事である。
すでに私が首都大在学していたのは5年以上前になるので、今はどうなっているかは分からないが、少なくとも移行期を長く見ていた人間として書く資格程度はあると思う。
また、私が人文系所属だったため、当然人文系が話の中心になってしまうものの、首都大に限らず総合大学の大学改革はだいたい人文系・教員養成系が中心になるので、この点については好都合であろう。

都立大学改革の概要

すでに都立大改革は10年以上前の話になっており、かつそれほど知名度の高くないこともあり、関係者や大学教育に関心が高い層以外は、よく知らない人が大多数であろうと思われるので、簡単に俗に言う都立大改革・首都大開学までの歴史を振り返っておこう。

ときはゼロ年代前半、小泉政権のもとで郵政民営化など行政のスリム化が「改革」のワンフレーズのもと押し進められる時代の話である。
国立大学の統合・法人化が押し進められ、その波が公立大学に押し寄せてきた時代。

東京都立大学も都立の他3大学(東京都立科学技術大学東京都立保健科学大学東京都立短期大学)との統合が決まっていた。

ところが、そこに時の都知事・石原慎太郎が介入。
石原都知事が2期目の都知事選で掲げた「まったく新しい大学を作る」という謎の公約を実行して作った謎の大学が「首都大学東京」である。

結果から見ると、大学名以外何が新しかったのかよくわからなかったわけだが、
「都市教養学部」とか「単位バンク制」とか「教員任期制」とかなんか色々新し目の単語を揃えた新大学「首都大学東京」が2005年にできたわけである。

その過程では、大学改革に反対して多くの教員が流出。首都大学東京開学時おいては、教員が揃わず総合大学でありながら経済学の専攻が成立しないという自体になった*3

また、あらゆる大学の大学改革でそうであるように、人文系の教員の反対が多かった。石原慎太郎がそういった反対する仏文教員を揶揄して「フランス語はろくに数も数えられないから、国際語失格だ」とか発言して、全国ニュースになったことを覚えている人もいるだろう*4

そういった新しめの言葉のもとで行われた改革について下記で検証していく。

首都大学東京の校風

大学改革の制度の検証に移る前に、6年間過ごした首都大学東京の校風について話したい。本項は思い出話と思って頂いて構わない。

首都大の校風はなんといっても「地味」である。

その地味さの由来は八王子市南大沢という立地にある。新宿まで出るのに45分、390円かかる。
最初は粋がって都心に遊びに行っていた新入生もだんだん南大沢や堀之内で遊ぶようになる。
付近に中央大学などもあるが、早慶やMARCHみたいによその大学への強烈な優越感や劣等感があるわけでもなく、なんとなくそこそこ勉強して卒業していく。まあ、そんな地味でまったりしている大学である*5


都立大から首都大になって、都立大の先輩方はよく「(首都大になって)チャラくなった」「活気が出た」と仰っていたが、
これでチャラくて活気が出たというのなら都立大は修行僧でもやっていたのかという地味さである(あとまあ単に都立大から首都大になっても定員が増えたというのはある。おかげで食堂は酷いことになってたけど)。

自分が入った頃の学生を分類すると3パターンあった。

パターン1……首都大改革の理念を信じて入ってきた層。意識が高い。
パターン2……センター試験の点数でなんとなく入ったそう(自分も該当)
パターン3……県立進学校の良い子で、国公立至上主義の進路指導に従い素直に進学した子

これがパターン1:パターン2:パターン3=2:4:4ぐらいの比率でいた大学だった。
この学風のまったり要素はパターン3の学生が担っているのは間違いないが、彼らはいい子たちなので憎めない。

対して、パターン1の学生はやる気に満ち溢れており活気が溢れそうな気もするが、
そもそも石原慎太郎の薄っぺらい改革フレーズに騙されている奴らなので、頭が悪い。

パターン1の学生はインカレサークル作ったり、ミスコン作ったりなんか頑張っていたようだが、所詮安っぽいことしかできないし、在学6年間みていても彼らの存在感は年々落ちていった。

石原改革の御威光も大学改革の理念も散逸した今となっては、彼らは絶滅危惧種になっているのではないかと想像する。

そんなわけで、まったりした風が今日もインフォーメーションギャラリー(というところがあった)を吹き抜けているのはないか、と想像する。

都市教養学部とはなんだったのか

さて、本項以降では首都大学東京が新しく打ち出した「改革」について検証していきたい。まずは「都市教養学部」という奇妙な学部からである。

東京都立大学人文学部、法学部、経済学部、理学部、工学部の5学部を有していた。医薬系や教員養成系は持たないが、ごく一般的な総合大学の形態と呼んでいいだろう。

対しては、2005年に開学した首都大学東京は都市教養学部、都市環境学部、システムデザイン学部、健康福祉学部という4学部を持つ大学となった。

……うん、なんなんですかね、この学部名。よって私の学歴も都市教養学部卒業となる。学士はもちろん、学士(都市教養)である……わけはない*6

システムデザイン学部は旧東京都立科学技術大学、健康福祉学部は旧東京都立保健科学大学の流れを組む学部なので、都立大の文理5学部は実質的には都市教養学部、都市環境学部の2学部に再編されたことになる。

ここで都市教養学部の組織図を見ていただきたい。

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都市教養学部の中に、都立大学5学部は人文・社会系、法学系・経営学系・理工学系という形で吸収されたことがわかる。*7

都市教養学部という名前とこの構成から見ても、文理融合型学部として新たなリベラルアーツ学部を作ろうとした跡形だけは見て取ることができる。

が、実際のところどうだったか。早い話が、この都市教養学部という学部は実態がなかった。

この4学系は入学定員の枠も別(東大のように入学後に学系を超えた進振りがあるわけではない)、カリキュラムも全く連関していない、教員の所属も別、事務組織も別、なんならそれぞれの研究室の建物も別。

都市教養学部という枠で教授会が存在したのか不明だが、少なくとも6年間の在学中に都市教養学部という括りで何らかの動きがあったという話は聞いたことない。

都市教養学部*8というのが存在したのが、唯一都市教養学部が「学部」とまとまっていたところかもしれない。もっとも、その下に学系長というのが存在したのだが。

要するに、都市教養学部という名前の下に人文学部、法学部、経営学部、理工学部という4学部が実質的に独立して存在していたのである。

そして、実際平成30年度から都市教養学部は解体され、人文社会学部、法学部、経済経営学部、理学部に再編されることが決まっている(要するにもとに戻す)*9

学際研究、リベラルアーツとうるさいこのご時世に、人文社会学部を復活させる一見逆コースに思える決定は、都市教養学部という理念先行の失敗を受けた現状追認と見れば当然に思える。

最後に、実際学生のカリキュラムはどうだったか記述しておこう。
今はどうか知らないけど、当時私が所属した専攻では自分の専攻の専門の単位は約50単位を揃えばよく、必修の基礎科目さえ揃えば、残りの専門単位は他のコース、学系の単位で揃えても良かった。
日本文学を専攻していた自分で例えれば、日本文学の単位で50単位とって、1、2年生の必修の基礎科目をとれば、あとは他の専攻の単位で卒業単位を揃えてよかった。

おかげで、自分は社会学や哲学の授業を受けたり、憲法の授業受けたりしていたわけだけれども、正直学際的な勉強をしている学生はあまりいなかった。
ここで出てくるのが、先ほどの学生の校風である。地味で良い子である子たちは、そういう単位のとり方はあまりしない。
専攻に示された模範どおりの単位をとって卒業していく。良く言えばいい子だけど、悪く言えば保守的である。
保守的な子たちに学際的な勉強を自主的にさせるのは難しい。結果的に、都市教養学部という制度は学生たちもあまり利用できなかったのである(まあ理系科目を受けても教養科目以外はちんぷんかんぷんだし、仕方ないところはある)。

これは余談だが、日本文学を専攻した私は上の図式では「都市教養学部人文・社会系国際文化コース」なるところの所属になっていた。
日本文学なのに所属は国際??英語喋れるの??みたいな謎のことになっていた*10
この国際文化コースは流行りの国際教養系とかでは全くなく、英文、仏文、独文、中文、日文、史学、哲学、表象文化論という専攻の集合体で、要するに狭義の人文学が集められて適当に国際文化コースという名前がつけられていたというのが真相。
当然、国際文化コースなら組織になんら実態はなかったわけで……こんなのばっかり。


自分のツイートで恐縮だけれども、都市教養学部へのこの皮肉はかなり的を得ていると思う。

単位バンク制

首都大改革の目玉として導入されたものとして、単位バンク制というものがある。

単位バンク制は新大学構想の様々な制度の中でも、大学を破壊するものとして都立大改革反対派から最も懸念を示されているものの一つであったようだ。

都が新大学(首都大学東京)で導入を検討している単位バンク制 (注1参照) は非常に問題があり、学外だけでなく、学内の授業科目も毎年、登録授業 科目として講義内容も含め評価・審査対象とされている(大学管理本部が任命した個人で構成された教学準備委員会の3/29の資料021�!+027)。これは、 授業科目やその内容を検閲する制度であり、学校教育法59条に明白に反するだけでなく、学問の自由(憲法23条)に対する干渉が可能という点で重大な 問題点を含んでいる。
「単位バンク制」は大学教育を破壊するおそれがある

ようするに、いろんな大学の単位を銀行のように貯められる、というものらしい。

らしい、というのは、この制度を利用していた人を一人も知らないからである。

自分の記憶が正しければ、単位バンク制で利用できた他大学は二大学の一部の授業程度で、要するに普通の単位互換制度と変わらない。というか、普通の単位互換制度が充実している大学にはるかに劣るだろう。

このように、不幸中の幸いで(?)、大学教育を破壊するものとはならなかったわけだが、
要するに大々的導入した割に何にも機能しなかった制度なのである。

初年度パンフレットでは大々的に載っていた単位バンク制は年々文字が小さくなり、
今日首都大学東京のサイトを探してみたがどこにも載っていなかった。
ごく普通の単位互換制度の紹介がHPの端っこに載っているだけで、こうして大学改革の目玉は滅びたのだった。

www.tmu.ac.jp

教員任期制・年棒

こうした都立大改革が発表された当初、先生たちは激しく反対したが、学生はそこまででなかったと都立大の先輩方からお伺いしたことがある(もちろん反対運動を行った学生もいる)。

おそらく教員が大きく反発した最大の理由はこの教員の任期制・年棒制であろう。

今、全国の国立大学を蝕む(文科省からの圧力で)、この制度だが、
正直、学生からはこの効果はなんとも言えないし、分からない。

ただ、2014年に、首都大は任期制を撤廃するというニュースが流れている
全国の国立大学改革と逆行する動きで、これができるのが国立ではない都立の強みを発揮しているとも言えるのかもしれない。

首都大学東京とはなんだったのか

ここまで首都大学東京の改革について見てきましたが、
結論から言うと、当時改革で掲げられたものは何の意味もなかった、と言えるだろう。

そのことに東京都も気づいたのか、都知事が交代交代で大学に世間の目が向いてない間に、確実に改革の巻き戻しを行っている。
ここで小池百合子知事が首都大に気づいてしまったは運の尽きで、今後何があるかわかりませんが、首都大12年の歴史(失敗も含めた)を踏まえた決断を期待している。

*1:都立大改革反対派が使う首大という略称はあるが、ニュートラルなのはこちらの略称だと思うので、こちらを採用する

*2:都立大学は最終的に2010年まで存続した

*3:2012年ぐらいに経済学コースという形で復活した。最も、自分が在籍した頃でも全く経済学の先生がいなかったわけではないし、経済学の授業は行われていた。余談だが、マル経の教授が残っていたのはウケる。他に行き場がなかっただけだろうけど

*4:余談だが、首都大改革後も仏文の教員は石原慎太郎の悪口をよく言っていた

*5:東横線都立大学駅にあった頃は知らないけど、地味さは似たようなものでしょ

*6:本当は学士(文学)です

*7:都立大学改革反対派は東京都立大学首都大学東京は別大学だという立場をとるので(法律上もそうなっている)、こういう言い方は好まない。が、人的施設的資源を引いていることは明らかであるし、別大学というは主張はかなり「政治的」だと思うのでここでは採用しない

*8:初代学部長は刑法の前田雅英。大学改革で親石原派で論功行賞で学部長にしてもらったというのが専らの噂。真偽は不明だが、その後の東京都の規制問題などでは東京都よりの姿勢をとっている

*9:HPを見ると理工学系の工学分野はシステムデザイン学部に吸収されるっぽい。よく知らんけど

*10:当時は明治大学国際日本学部もなかった