戦時下を生き延びていくということ────コニー・ウィリス『ブラックアウト/オール・クリア』感想

HoI4にハマってしまった話

我が家はゲーム禁止でマリオもカービィポケモンも友達がプレイしているのを眺めているだけの少年時代を送った。一人暮らしになってからは金銭と時間の許す限りはゲームは出来る環境になったが、やはり子供時代に縁を結べなかった後遺症は大きく、ほぼほぼゲームとは縁遠い人生だった。
それが、Steamのセールを知ってから、PCでゲームをするようになった。我が家の低スペックPCでも動くゲームがあると知ったからかもしれない。もともとシミュレーションゲーム系は好きだったこともあり、社会人のお金とともにいつの間にかのめりこんでしまい、大して高くない方とはいえゲーミングPCまで買うことになってしまった。人間何があるかわからないものである。

さて、その中でよくやっているゲームといえば、Hearts of Iron4(HoI4)だ。第二次世界大戦を舞台とした戦略シミュレーションゲームで、プレイ開始時に各国首脳を選択し、その国でWWⅡを戦っていく。当然フランスであれば開始早々ナチスドイツが襲い掛かってくるし、ドイツであれば序盤は無双してもいずれは米ソと泥沼の戦いをしなければならない。
その中でも自分はイギリスでプレイするのが好きだ。ナチスドイツの侵攻に対しフランス戦線を必死に保つのがイギリスの最初の大きな仕事だ。自分はこの世界では未来人なので当然アルデンヌの森に厚く兵を配置するが、思わぬところから突破される。*1
突破されたら最後、ダンケルクから必死に逃げ出し*2、あとはバトル・オブ・ブリテンを始めとする猛攻に耐えに耐え米ソの参戦を待つしかない。独ソ戦の行き詰まったタイミングを見計らいイタリア上陸、ノルマンディー上陸と反撃を加えていく。史実通りでもダイナミックだし、耐えに耐えないと勝利の喜びは来ない。
当然、その過程で多くの死者が出る。ゲーム上ではあくまでも画面上の数字だが、現実では多くの人が耐えに耐え、VEデー(1945年5月9日、欧州戦勝記念日)にたどり着くために努力した。ゲームに対してメタ的なポジションにいるプレーヤーは死ぬことはないが、当然そこにはVEデーにたどり着けなかった多くの死者がいる。その死者の背後には死者を愛する生者がいる。そして、生き残った者は死者を前に自分が死んでいたかもしれないという確率的な死に晒される。*3
コニー・ウィリス『ブラックアウト』『オール・クリア』(この二編は続き物のため以降スラッシュで表記する)は未来人としてロンドン空襲を訪れ、そういった戦火のなかで必死に生き延びるものたちの物語だ。

コニー・ウィリスは長すぎる

コニー・ウィリスはSF界の最高の賞であるヒューゴー賞を11回、ネビュラ賞を7回受賞してるSF界の大家である。件の『ブラックアウト/オール・クリア』も両賞をダブル受賞している。

そんな押しも押されもせぬSF界の大家だが、人に勧めると意外と難色を示されることがある。何故ならやたら長いのだ。日本で彼女の長編作品を読もうとすると分厚い文庫本上下巻ものは覚悟しなければならない。SF界にはスペースオペラものというひたすら長い業界もあるのでそれに比べるともちろん大したことはないのだが、(SFファン以外は)名前も聞いたことない作家の上下巻ものに手を出してくれる率は低い。
実際読み始めると、登場人物たちのやりとりがコミカルでスラスラっと読めてしまうのだが、会話劇のようなものが続き、だんだん単調さを覚えてくるときもある。それでも、つい手を出して読んでしまう理由の一つは、『航路』の終盤で魅せた鮮やかさが忘れられないからだ。ウィリスは『航路』で臨死体験をテーマにとりあげ、死は明確に不可逆な死として存在しつつも、オカルトに陥らない形で「救済」を描いた。*4『ブラックアウト/オール・クリア』は第二次世界大戦を舞台にしたその系譜に位置づけられる傑作と言える。

第二次世界大戦期のイギリスに送り込まれる未来人

『ブラックアウト/オール・クリア』は同作家の『ドゥームズデイ・ブック』と『犬は勘定に入れません』と同じ航時史学生シリーズの作品。とはいえ、作中の一部登場人物と設定が共通しているだけで本作から読み始めても問題はない。航時史学科(要するにタイムトラベル史学科)を舞台に学生や先生が過去にタイムトラベルして色々と奮闘するシリーズだ。
ドゥームズデイ・ブック』の舞台は中世黒死病の時代、『犬は勘定に入れません』の舞台は華やかなるヴィクトリア朝イギリス、そして『ブラックアウト/オール・クリア』の舞台はいよいよ第二次世界大戦期のイギリスだ。

航時史学科の三人の学生はそれぞれの研究課題のため、1940年のイギリスにタイムトラベルする。
メロピーは田舎の屋敷のメイドとして疎開児童を観察するため。
ポリーはデパートの売り子としてロンドン大空襲で灯火管制(ブラックアウト)のもとにある市民生活を体験するため。
マイクルはダンケルク撤退における民間人の「小さな英雄」を調査するため。

彼らは当然未来人なので、危険回避のために様々な戦争の状況を学習して送り出されている。ポリーはロンドン空襲を受けた地点をインプラントで頭に叩き込んでいたし、メロピーだって戦争中空襲がなかったことを確認して疎開先に赴いている。マイクルにいたっては、安全なドーバー側で観測をするはずだった。ところが、歴史のいたずらはそうは行かない。ロンドン空襲を受けた地点の元のデータは当時の新聞であるが、当然当時の新聞は戦中の混乱期&情報攪乱のため、空襲地点は正確な情報ではない。メロピー(この時代ではアイリーンを名乗っている)は成り行きでロンドンに帰省する疎開児童に連れ添うこととなり、バトル・オブ・ブリテンに巻き込まれていく。マイクルは取材した船長の気まぐれで炎の上がるダンケルクに向かうことになる。

タイムトラベル装置の故障で3人が帰れなくなるのはこの手の物語としてはお約束と言えるが、そこからの展開が白眉だ。帰れなくなった3人はこの時代で生き延びていく覚悟を要求される。彼らはいずれ英国はドイツを打ち破り、VEデーを迎えることは知っている。ポリーにいたっては過去のタイムトラベルでVEデートラファルガー広場に赴いたことすらある。だけれども、そのVEデーを迎える一員になることが出来るかは誰にもわからない。もしかしたら、彼らの行動が世界線を変えてしまい、連合国は敗戦してしまうかもしれない。

そういった中で彼らは少しずつ時代の一員となっていく。ポリーが記憶していたロンドン空襲被害箇所も期間(当初の調査予定期間)を過ぎてしまい、どこが空襲されるかわからない状況になってしまう。ダンケルクに向かったマイクルは未来人であるにも関わらず兵士を救ってしまい、その兵士がドーバー海峡を数往復し、多くの兵士を救ってしまう(=歴史を改変してしまう)。メロピーはいたずら好きの疎開児童・ホドビン姉弟を沈没した歴史の残る疎開船にのせないことで救ってしまう。彼らは時代の人とともに生きていくうちに、当初は観察対象であったはずの「小さな英雄」となっていく。そして、時代人とともに必死に防空壕や地下鉄駅に逃げ続け、明日生きているかももわからない日々を過ごす。メタ的なポジションにいたはずの未来人たちが時代人になっていく話でもある。

読者も戦時下のロンドンに引きずりおろされていく

これが映画なら時間的にそろそろ何か奇跡が起こって救われるんだろうな、と思うが、何せ前述の通りコニー・ウィリスの小説は長い。今までの小説も長かったが、『ブラックアウト/オール・クリア』はそれに輪をかけて長い。『ブラックアウト』だけでも上下2巻、続編の『オール・クリア』はさらに分厚い上下2巻だ。この長さが登場人物たちだけでなく、読者にもじわじわと効いてくる。戦争ものとはいえ、そこはコニー・ウィリス、会話はコミカルだし、「神は細部に宿る」が如く*5戦時下のロンドン近郊の生活、そこに生きているユニークなキャラクターたちが事細かに描写される。だけれども、5年も先のVEデーはなかなかやってこない。小説の長さに読者も主人公たちと共にいつか訪れる(はずの)VEデーを待ちわびる忍耐を強いられていく。作中で未来人が時代人の地平に引きずられていったように、読者も時代の地平に引きずられていく小説なのだ。

少しだけネタバレすると、最後はVEデーで人がごった返すトラファルガー広場で終わる。でも、かつてポリーが調査のために降り立ったVEデーと(小説の前半部にそのシーンがある)、耐えに耐えて迎えたVEデーでは全く感慨が違う。韓国の梨泰院雑踏事故を見た直後に、チャーチルがベランダからピースサインをするトラファルガー広場の写真を見ると、雑踏事故が起きなかったのだろうかと心配になるが、VEデーを迎えたロンドンっ子たちの歓喜追体験できる傑作といえる。

この世界の片隅に生きる人々

この世界の片隅に』の片渕監督は映画を作りながら読んだ作品として印象に残ったものとして、このコニー・ウィリスの『ブラックアウト』『オール・クリア』を挙げている。確かに細部まで拘った描写、空襲を受ける銃後の市民の生活と共通点は多い。その一方で、大きな違いはポリーたちの生きる国は戦勝国で、すずさんたちの生きる国は敗戦国ということだ。『ブラックアウト/オール・クリア』で終戦まで生き延びたものは(その陰には生き延びられなかったものと苦難の生活があったとしても)トラファルガー広場でのお祭り騒ぎに参加できた。では、敗戦国は?となったときに、苦難と死者とあり得たかもしれないという確率的な自分の死を抱えたまま俯くしかない。そのやり場のない憤りこそが、敗戦のニュースを聞いた時のすずさんの発言に繋がるのではないか、ということをつらつらと考えてしまう。
両作品とも作品を通してすべて暗いわけではない。明るいところもあれば、暗いところもあり、そこに当たり前のように生活がある。戦勝国にも敗戦国にもこの世界の片隅で生きている人たちがいるという当たり前の事実を改めて突き付けられる両作品だ。

*1:ベネルクスで止めるのに成功したのに、イタリア軍に南仏への侵入をゆるしたりとか……

*2:ゲーム上はよっぽど意図しない限りはダンケルクにはならないが

*3:チャーチルはそういうのに無頓着だったらしいが

*4:もちろん後半の医学的説明はかなり眉唾だとは思うけれども、物語のリアリティを逸脱するような安易な《奇跡》は描かれない。また前半のどうでもよさそうなシーンの伏線を怒涛の勢いで回収していくのも見事である

*5:犬は勘定に入れません』ではこの言葉が最初に引用されている