「不確かさ」を抱えたまま終わる居心地の悪さ——『街とその不確かな壁』

何故、この新刊に古くからの村上春樹の読者が沸き立ったのか

村上春樹の新刊『街とその不確かな壁』を読んだ。

一九八〇年に文芸誌に掲載された村上春樹の中編に「街と、不確かな壁」という作品がある。
その中編は作者がいうには内容的にどうしても納得がいかないという理由で書籍化されていない。その中編を核に作り上げていったものがこの本作だ。
とはいえ、壁に囲まれた街をモチーフにしたと思われるその中編のモチーフは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)を支える大事な片輪として使われているのは、この有名な長編を読んだことがある多くの人には言うまでもないだろう。

村上春樹はよくデタッチメントからコミットメントの作家に変化したと言われる。物事や出来事への無関心な態度をデタッチメントという。ステレオタイプな「やれやれ。僕はパスタを茹で始めた」のような春樹を想像してもらえばわかりやすい。デタッチメントな態度は80年代の村上春樹作品を特徴付けるものだったが、『ねじまき鳥のクロニクル』(1994)で深化し始めた春樹は、『アンダーグラウンド』(1997)以降、地下鉄サリン事件の被害者にインタビューをしに行くようなコミットメントの作家になったと言われる。そのありきたりの春樹観の正しさはともかく、近年の作品とは一線を画す、80年代の作品をベースとしたデタッチメント春樹の新作が出るということで、昔からの村上春樹の読者をざわつかせたのはこういうわけだ*1

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「壁のある街」から出たあとはどうなったのか

高校生の頃に村上春樹を熱心に読むという月並みの経験をした ——そしていつの間にか読まなくっていた大人として、新刊にふんだんに持ち込まれる「世界の終わり」のモチーフを読むたびに、遠い記憶の底に沈むあの鬱屈として青春の日々とそこから遠くまで来てしまった自分に思いをはせてしまう。門番、切り離された影、針のない時計、街を取り囲む壁……そういった要素が散りばめられたあの街は「世界の終わりに~」を読んだ人たちの心の奥底に仕舞われていたものを——ときどき本作をモチーフとしたアニメや小説で思い起こされることもあったが——呼び起され、あの頃から十年単位で時が経っていることへの驚嘆とあの頃からの変わってしまったことの諦念を思い起こさせられてしまうのだ。

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では、クライマックスに街を出ていく影と別れる。ところが、この新刊は冒頭で早々に影はその街を出ていく。
そう、この分厚い新刊で待ち受けるものは、その街の記憶を持ちながら生き続けなければならない、その後の長い長い人生の話なのだ。

初恋の女の子を失った喪失を抱えたまま中年になってしまった主人公

本作では高校生の頃に文通し、時々デートをしていた女の子が冒頭で重要な役割を果たす。その女の子には本作では名前は振られていないが、とりあえず”直子”としよう。本作の直子は自殺したわけでもない。本作の主人公と直子は散歩したり、他愛もない話で盛り上がり、精神的な不安定さを見せたりして、そして主人公の前から去っただけだ。主人公と2人で作り上げた壁に囲まれた街だけを残して。

もちろん、これだけではありきたりな高校生の甘い過去の恋愛話でしかない。主人公はそのことにも自覚的だ。もしかしたら、今までも村上春樹の“直子“は自殺したわけではなく、こういうありきたりの喪失感なのかもしれない。ところが、本作の主人公は緑にもキキにもレイコさんにもユキにも出会わない。踏切で直子とすれ違って山崎まさよしが流れ始めることもない。この主人公は心に直子を抱えたまま、歳をとり中年になり、会社を辞める。ありきたりの言葉を使えば中年の危機だ。

そして、地方の山深い町にある図書館長に転職する。全国の図書館が指定管理者制度のもと最低時給で司書資格を持った若い人たちが働いている世界の人間からすると司書資格もないのに図書館長に転職できる話があるなんてなんか隔世の感を覚えてしまうが、それはひとまず置いておこう*2。その山深い街の図書館が第二部の主要の舞台となる。

本作の村上春樹は優しい

その壁に囲まれた街と似た山深い町の図書館で主人公は壁に囲まれた街と接近していく。わざわざ虚実乱れる描写が増えてきたあたりで、コーヒーショップの女性との会話にガルシア=マルケスのエピソードを入れたりと村上春樹も読者に優しくなったなぁ、と思う。
その街で先代の図書館長・子易さんと主人公は出会い、その喪失感を少しずつ肯定してもらう。いつもニコニコしている子易さんは息子が事故死、妻が自死した悲劇の人だ。その悲劇の人に主人公の喪失は同等のものであることを認めてもらう。主人公はバカではないので、自身の喪失が客観的に見れば大したことではないことを理解したうえで、それでも喪失感を抱えてどこかここは本当の世界でない感覚を持っている。人間にとって感覚は主観的なものであり、個々の心にある中の喪失を悲劇の人・子易さんに認めてもらうのだ。本作の村上春樹はとてもやさしい。かつての読者にも、喪失感を抱えて生きる中年になった人にも。

そう、本作はとてもやさしいのだ。ネタバレすると、最終的には壁に囲まれた街を出ていくことになる。とはいえ、その手つきはとてもやさしい。
世界の終わりとハードボイルドワンダーランドや本作の冒頭では影は南の溜まりに飛び込むことで街を脱出した。しかし、今作のラストではイエローサブマリンパーカーを着た少年とゆっくり入れ替わることで街を脱出する。イエローサブマリンパーカーを着た少年に壁の外のあなたの代わりは十分やっていると肯定されることによって、街の外に出てくるのだ。

緩やかに肯定される生と他者への無力さ

もちろん主人公は常識のある大人として、少年が壁に囲まれた街に行きそこに残ることを選択することを手助けすることに躊躇する。とはいえ、子易さんが言う通り、「イエローサブマリンパーカの少年」が壁に囲まれた街に行くことに主人公はきっかけを与えるだけでほとんど介入もできないし何もできないのだ。デタッチメントとして生きてきた主人公が他人を助けようとコミットメントをしようとするが、不能な様子も合わせて描かれるのだ。

本作の壁は隙間のないように虚実を分かつ壁であるけれども、主人公が何度も出入りをし、そして少しずつ壁が形を変える通り「不確かな壁」だ。その「不確かさ」に気づいた主人公が壁を出てこれる一方で、少年が壁に囲まれた街に残ることへ介入出来ないという他者への不能が描かれる。

本作では村上春樹の長編としては珍しくセックスの記述がない。村上春樹におけるセックスの記述は『ノルウェイの森』を除けば基本的には淡々としたものであるが、本作の「性」の記述はやや特殊だ。高校生の性欲は珍しく描写されるにも関わらず直子とは野外でペッティングをすることもない。中年になってからも性欲が描かれるが、「コーヒーショップの女」はがっちりした硬い下着をつけていて、セックスをしたくない女として描かれる。どこか蓋をされたような記述が散見される。

居心地の悪さと緩慢な生への肯定

個人的にはこの小説を読んでどんよりしてしまった。早速村上春樹作品によくある謎解きゲームに熱中している人もいるが、それにあまり意味があるとも思えない。
ここにあるのは緩い生への肯定と他者との繋がれなさだ。そこにはカタルシスも説教もない。夢の世界からたたき出されて友引町に落下させられるわけでも、浜辺で女の子に「気持ち悪い」と言われるわけもないのだ。なんならまだ説教されて、夢の世界なんてないんだよ、他者と向き合えとバシッと言われた方がマシな気がする。
本作は言い切るわけでも人生のピリオドがあるわけでもなく、虚実入り混じった「不確かさ」を抱えたまま終わる居心地の悪さを感じてしまう。

でも、そんなものなのかもしれない。80年代村上春樹の最終作ともいうべき「ダンス・ダンス・ダンス」では、最後スバルを持って北海道に移住する。しかし、北海道で移住したってそこで人生が終わるでわけではない。雪の中で若い女の子を抱きしめて喪失ごっこをした先を生きなければならないのだ。*3本作はどこか青春の終わりを見つけようとしていた80年代のデタッチメント村上春樹よりもデタッチメント的だ。
老年になった村上春樹が一周してセロトニンが枯れたのような作品を世に問うた意味を、かつての村上春樹を熱心に読んだ元少年として居心地の悪さと緩慢な生への肯定を真剣に受け止めないとならないのかもしれない。

(注:1年ほど下書きで眠っていたブログ記事なので、時系列等違和感があるかもしれませんが、ご容赦ください)

*1:この段落を書きながら一昔前ならこんな説明しなくても伝わっていただろうな、とつい思ってしまった。大学時代に社会学の大家の先生が思想史上のマルクスの説明をしながら、「一昔前ならみんな勝手に学んでてくれていたのにな」と苦笑いしていたのを思い出した。多かれ少なかれみんな村上春樹を当たり前のように読んでいた時代は遠い過去のものだ

*2:携帯電話が出てこないことからも舞台設定は現代ではないと思うが、今の図書館をめぐる厳しい状況はそれは春樹も多少意識していると思われ、指定管理者やファンドで運営される民営図書館という言葉がちらほら散りばめられており、厳しい時代の中に子易さんのおかげでポツンと取り残されたオアシスのようなものだろう

*3:言うまでもなく映画『ドライブ・マイ・カー』の1シーンの話だが、あのロードムービーシーンは原作にはないため、過去の村上春樹的なイメージの引用のようだ