終わりなき凡庸さを生きろ────映画『花束みたいな恋をした』を観た感想とも言えない独り言

先にお断りしておくがこれは映画『花束みたいな恋をした』の感想ではない。『花束みたいな恋をした』というカルチャー好きの若者が語りたくなる要素が満載の映画に乗っかって、公開から半年以上たった今更、自分語りをするものである。すでに若者ではない自分が乗せられてしまうこと自体に悔しさがあるが、それだけに“自分を特別”と思っていた凡庸な人に向けた映画であったので許してほしい。


映画『花束みたいな恋をした』(監督:土井裕泰、脚本:坂元裕二)は2015年に出会った麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が、住を得て一緒に住み、そして2019年に別れるまでの話である。それだけならテレビ局(本作はTBS)が企画し、人気俳優を使った邦画ということで、作中の麦や絹もおそらく見に行かないタイプの映画でしょう(そこにやや皮肉がありますね)。本作がカルチャー好きの心を掴んだのは、作中の麦と絹の人物造形、そして作中に出てくる膨大な固有名詞でしょう。

なんて心が休まらない映画なんだ

お笑いのライブに行き損ねて、明大前で終電を逃したことで出会った二人は、たまたま入ったお店で押井守を見かける。同席していた社会人二人は押井を分からずに『ショーシャンクの空に』と実写版『魔女の宅急便』の話を始めてしまうことに失望する麦。絹が帰り道に「押井守がいましたね」と声をかけたところから恋は始まります。

冒頭をまとめているだけで、腹立つな~~~~~~~~!学生時代に終電逃しても押井守を見かけたり、有村架純と出会あったりしなかったんだけど!!というのは置いておいて、二人の“特別”と思っている意識をくすぐると同時に、絹の押井の評価が「好き嫌いは置いていても、押井守は広く一般常識であるべきです」「世界水準ですよね」というやりとりに象徴されるように二人の“特別”と思っているだけの凡庸であることを表す人物紹介としては素晴らしい描写でもあります。なんやねん世界水準って。

その後、居酒屋に移動した二人は今村夏子や穂村弘が好きなことが分かって意気投合。多和田葉子小川洋子うーん好きそうね、つーか、今舞城王太郎って言った?佐藤亜紀って言った?何がガスタンクだよ、デイリーポータルZかよ。何がミイラだよ。なんで二人とも京王線沿いに住んでるのになんで上野の博物館前で待ち合わせなんだよ、不器用すぎだろ。あと科博デートは常設が広いから時間と疲労に気を付けるんだよ。

とまあ、冒頭のラブラブパートから思い当たる節が多すぎて心が穏やかにならない映画なのですが、多くの人の心を掴んだのはやはり中盤から後半でしょう。

就活戦線に折れる絹。その時、麦が絹に「その人は今村夏子のピクニックを読んでも何も感じない人なんだと思うよ」とかけた言葉はその後二人の呪いになっていきます。
就職が決まらないまま、調布駅から徒歩30分、多摩川の川沿いで同棲生活を始めた二人ですが、フリーターの二人に世間の風は厳しく、広告代理店勤務の絹の両親、長岡で花火師をやっている麦の父から説教され仕送りを絶たれます。「俺の目標は絹ちゃんとの現状維持です」というフィクションの若者の主人公としては珍しいセリフを麦が吐くのがこの頃ですね。その現状維持が一番難しかったわけですが。

仕送りが絶たれたことにより、イラストレーターとして食べていけない麦は、絹の言葉を借りれば「シン・ゴジラが公開され、新海誠が突如としてポスト宮崎駿と言われた」を過ぎた頃に働き始めます。営業職になった麦はだんだん仕事が忙しくなり、絹との約束で行く予定だった舞台の日に仕事が入ったことで二人は喧嘩をはじめます。今村夏子の新作が載った雑誌を本屋で抱えた絹が報告しようと麦のもとに向かうと、自己啓発本を立ち読みしている麦。本を渡しても麦の机の横で積みあがる積読本。出会った頃は文庫落ちしてから、と話していたのに、(お金が出来たので)単行本が積みあがっていくのがリアルですね。

クーリンチェ終わっちゃうよ、と声かける絹の声はむなしく、読んでないゴールデンカムイは積み重なっていき、初任給でせっかく買ったswitchはゼルダの途中までで終わっている。麦とのすれ違いは決定的になっていきます。好きなことを生かせる仕事に転職した絹と喧嘩した麦が「今村夏子のピクニックを読んでも何も感じない人」になったと自分で認めるのが印象的ですね(まあ映画としてそこまで言葉で説明しなくても、とはちょっと思ったが)。
友人の結婚式に出かけた後、思い出のジョナサンで別れ話をする麦と絹。恋愛感情なくなっても結婚して子どもを作ってワンボックスカー買って多摩川を散歩しようよ、と麦が語る言葉が虚しくひびくなか、たまたま近くの席に座った自分たちの昔を観ているような若いカップルが決定打になって二人は別々の道に歩みだすことになります。

別れようと決めてからの二人は、同棲のロスタイムを憑き物が落ちたように楽しく過ごし、新宿でたまたますれ違い、グーグルストリートビューで二人の姿を見つけたところでこの物語は終わります。

感想とも言えない独り言

世代と文化の問題

この登場人物が設定されている年齢よりも7、8歳ぐらい自分は年上なので、正直なところ、出てくる固有名詞にそこまで思い入れがあるというわけではないです。とはいえ、特にカルチャーの記号としてやり取りがされるだけなので別にわからなくてもいいし、間口は広く作られていますね。
そういえば、だからこいつらは固有名詞を記号として使っているだけの"にわか"なんだ、っていう感想を書いている人がいてそれは確かにそうなんですが、今村夏子だけは作家として復帰したというキャリアを含めた上での特別な扱いなので(それに麦もずっとこだわっていた)、そこは外してはならない点だと思います。
これが我々の世代だったらどうなっていただろう、とはちょっと思いましたが、それは劇場版『モテキ』がすでにありましたね。でも、モテキは花束と違って文芸系が弱いので今一つピンとこないところがありますが。『花束』を自分と近い世代で作るとなったら、今村夏子、小山田浩子あたりが川上未映子伊藤計劃あたりになる感じですかね。

会社で仕事をしていく

個人的にはやや麦くんに同情してしまうところがわりとありますね。文化系でもない普通の仕事を始めると、時間の大半を奪い取られるし、気力もなくなってパズドラしか出来なくなるのはいたくわかる。仕事って何だかんだお金も貰えるし、うまくいけば承認も貰えるし、それまで特にGoogleストリートビューの映ることぐらいでしか脚光を浴びることのなかった麦くんにとって仕事が大事になっていったのも痛いほど理解できてしまう。会社は年上の人もいるので、それまで遠い存在だったカッコつきの「幸せの家族」というのがリアリティを持って迫ってくるので、「現状維持」が目標です、と言っていた麦くんが「結婚しよう」と言い始めるの、めっちゃわかるーーーーーー、ってなった。

私自身としてはその時期はアイドルのオタクをやって辛うじて乗り切っていたけど、私も人からおすすめされたけどクーリンチェ殺人事件は行かなかった記憶があるし、ひたすら恋人がゼルダをやっているのを観ている時期もあったので、結構、後半苦笑いの連続でした。

でも、まだ人生これからじゃない?

でも、年上としてやはり一つ言いたくなるのは「まだまだ若いんだし、自分なりの文化との付き合い方を考えていけるのでは」ということだ。

本作はポップカルチャーを消費するこで"特別"と思っている若者に、まざまざと"普通"で"凡庸"であることを突き付けてくる。
だけれども、我々は朝井リョウにも宇佐美りんもなれないけれども、それを何歳になっても読むことは出来る。
凡庸ということはある意味贅沢でもあって、その凡庸さを受け入れたうえで文化との自分なりの距離感を見つけていってほしいな、というのは30代として強く思ってしまった。なぜなら、社会はとても退屈で酷いし、文化はその酷い社会を乗り切るために必要なものなので。

若いころには難しくても、仕事と趣味の折り合いをつけるバランスが30近くなって取れていくこともあるわけです。私もクーリンチェ殺人事件はその後ネトフリかアマプラで観たし、麦くんが部屋に積み上げていた小川哲『ゲームの王国』(2017年の小説)も実は今年になってから読みました。

若い時にはサブカル格好つけで読んでいた本が年をとってから響いてきたり、他のところにリンクしたりする経験もあるし、なんていうか若い時に"文化"と折り合いがつけられなくなったとしても、また戻ってこれるし、それを受け入れる幅の広さがあるものこそカルチャーにはあると思うので。麦も絹もなんとなくつかず離れずでカルチャーと付き合っていってるんじゃないかな、と期待してしまいます。

麦くんも最後、ナレーションで今村夏子が芥川賞をとった話をしていたので、今でもちょっとは読んでいるのかもしれないですね。

Googleストリートビューでしかネット世界でも目立てない凡庸さ、終わりなき凡庸さを頑張って生きてほしい、と強く願わざるをえない映画でした。