会田誠『性と芸術』感想

会田誠『性と芸術』読んだ。

会田誠はセーラー服の少女をモチーフとした作品など、センセーショナルな作品で知られる現代美術家である。それゆえに森美術館での性的な作品の展示への抗議や大学の公開講座における環境型セクシャルハラスメント裁判など、何かと表現にまつわる騒動に巻き込まれてきた現代美術家でもある。その会田が自作の『犬』を題材に何故性的と思われる作品を作るのかを述べたのが本作である。


会田の『犬』は彼が藝大の大学院に所属していた頃に書かれた作品で、犬の首輪のついた四肢欠損した裸の少女がこちらを向いて微笑んでいるという大変インパクトの強い作品だ(さすがにここに貼るのはやや気が引けるので、各自でGoogleで検索してください)。
会田は狩野永徳『檜図屏風』の大胆な造形性と繊細な視線が同居していることの着想を受け、そこにエロティシズムを見出した。そして、停滞した日本画の打破のため、「悪」として川端康成の陰湿な性と同時代性(ロリコンカルチャー)に取材し、「犬」を作り上げたと会田は語る。
そのうえで、会田は「犬」をマネの「草上の朝食」の孫と位置付ける。マネ「草上の朝食」は現代からするとなんてことない作品だが、裸婦といえば神話絵だった当時としては、ただの娼婦が草の上に裸で座っているというスキャンダラスな作品だったと知られている。


さらに会田は動の表現主義的な作品と比較し*1、自身の作品を静の非表現主義的な作品と位置付ける。つまり、表現主義的な内面を吐露するような作品ではなく、あくまでも純粋な芸術の追求であると位置づけようとしているのだ。つまり、「犬」は自分の性的な興味に基づいて作られたものではなく、ポルノに取材はしているが、美術であると。

会田は本解説を書くことに大分躊躇していたようだが、現代の美術家がステートメントを書くのは不可避であるだろうし、美術史上の位置づけについては十分理解することができるロジックだ。その一方で、表現主義的ではないといいつつ、これだけの自分語りで自作解説を埋めてしまうこと、狩野永徳や川端に会田自身が淫靡なエロティシズムを見出していることを吐露しているわけで、やはり表現主義的な要素を持っていることは否定できないわけで、そのあたりの矛盾は気になってしまう。そのあたりを切り分け出来ない(そしてそれを隠さない)のが会田誠の良さでもあり限界でもあるのだろう。
その一方でまた、後半に収録されている「『色ざんげ』が書けなくて」ではさらに顕著だが、文章中にしばし差し込まれるインターネット上にありふれた凡百なフェミニズム批判には辟易してしまう。

本書内でも少し取り上げられているが現代を代表する現代アーティスト*2であるジェフ・クーンズはイタリアのポルノ女優の国会議員とセックスする《メード・イン・ヘヴン》という一連の写真シリーズを1991年から取り組んでいる。ばっちり接合部まで映っているその大胆さ、タイトルのストレートさと比べると、会田の一連の性的な作品はずいぶん屈折しているといえるだろう。それは本書でも見て取れるように、会田が近代を無理に接ぎ木された日本という国の屈折を追求し続けたゆえのものである。
世の中の流れもあり作品発表が厳しくなりがちな昨今、会田自身もTwitterで大分荒れているように思う。そのあたりは抑えてもらいつつ、私は適切なゾーニングはしつつも、また会田の作品を見て面白がったり顔をしかめたりする日が続くことを願ってやまない。

*1:会田は岡本太郎を例示しているが、アクション・ペインティングの方がしっくりくる気がする

*2:何せ最新のスパイダーマン映画で彼の代表作・バルーンドッグはヴィランに破壊されるのだ。毀誉褒貶はあれど、これが現代を代表する現代アートでなかったから何なのだ