映画『ジョーカー』が今一つ期待外れだった話(ネタバレあり)

映画『ジョーカー』を初日に観てきた。
初日に観たのはたまたまその日が休みで、「あー初日で観れるじゃん」ぐらい軽い気持ちだったのだけど、正直感想は微妙だった。

最大の理由は「ジョーカー」ってこんなに人間的だったっけ????

ということろに尽きる。

ダークナイト』のジョーカーはすごかった

自分はDCコミックスの熱心なファンでもなければ、バットマンシリーズの熱心なファンでもないので、熱心なファンからすれば、こういうジョーカーもありだよ!とかジョーカーというのはこういうものだよ、という意見が普通なのかもしれない。

だけれども、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』でバットマンに入門した自分からすると、どうしてもジョーカーに物足りないなさを感じてしまった。

もちろん、ヒース・レジャーとは違うけれども、ホアキン・フェニックスは素晴らしかったし、道化と狂気のジョーカーを見事に演じきっていたと思う。本当に素晴らしかった。期待外れの理由は脚本レベルの話である。

ダークナイト』は正義のヒーロー・バットマンと史上最大の悪役ジョーカーの戦いとよく要約されるが、それはちょっと違う。
秩序のバットマンと混沌のジョーカーと両者を併せ持つトゥーフェイスの三つ巴の戦いだ。だからこそ、最後のシーンでバットマントゥーフェイスを殺し、顔を正義の顔に戻すことが意味を持つのだ(1対2を2対1に戻す)。

そこで描かれるジョーカーは決して「人間的」ではない。ジョーカーは道化であり、混沌であり、不条理をゴッサムにもたらす存在だ。決して、トゥーフェイスのように人間と悪を併せ持つ役割を担っているわけではない。ジョーカーは徹底的に道化であったからこそ、ジョーカーであったし、その鮮やかさに我々は称賛を送ったのだ

ハンニバルのように、悪役はもともと普通の人間だったが、幼少期のトラウマによって悪に目覚める話は多くある。そうした心理主義的に悪を解体し、分析し、納得できるものにしたいというのは普遍的な欲求である。だけれども、その向こう側に圧倒的不条理というのも存在している。デヴィッド・フィンチャーの『セブン』のジョンや、コーエン兄弟の『ノーカントリー』の殺し屋のように、動機も不明、だけれども、悪といった不条理を描く方が実は何倍も難しい。人間、納得できないものを描くことの方が難しいのだ。
それに成功していたのが『ダークナイト』のジョーカーだったのだ。

映画『ジョーカー』の心理主義

さて、そのノーランのバットマン3部作に直接繋がる話では全くないが、全く意識せずにはいられないであろう映画『ジョーカー』はどうであったか。

映画『ジョーカー』はコメディアンになりたい1人の青年が主人公である。この青年はピエロの仕事をしており、母親と2人暮らしで当然のように貧乏だ。そして、脳の障害で突然笑い始める病気を持っている。

この青年は仕事仲間にもらった銃がきっかけで、ピエロを馘になる。ピエロ姿のまま 帰途についたさい、絡んできた酔っぱらいのエリートサラリーマンを地下鉄車内で銃殺してしまう。
社会的地位が高いエリートサラリーマンを射殺したことにより、鬱憤のたまっていた社会的弱者のなかでピエロが抵抗のシンボルになっていく。

その頃、母の過去の病歴、そして自身の妄想癖(この辺りの虚実入り混じる描写は見事だった)が相まり、狂気のジョーカーが誕生。テレビの前で人気司会者を射殺したことをきっかけに、街のピエロたちにスイッチを入り、ゴッサムは混沌に包まれていく……というストーリー。

ジョーカーの道化、狂気、そしてジョーカーの恐怖をもたらすあの特徴的な「笑い」の理由に丁寧に一つ一つ説明していってるのが映画『ジョーカー』という感じだ。もちろん、誕生譚としては理由を説明していくのは当然だし、誕生譚としては 当たりまえだ。

かつて、『ダークナイト』で描かれていたジョーカーの狂気は圧倒的だ。彼は圧倒的混沌であり、圧倒的狂気であり、圧倒的道化だ。そして、それは狂気や混沌を解体していく作業である誕生譚と相入れない。だからこそ、そこを心理主義に陥らずに狂気を描写するかを期待していたけだけど、映画『ジョーカー』はまあ普通の誕生譚だったなー、という印象。

精神疾患を持っていて(それが原因で人から敬遠される理由にもなる)、定期的収入をもたらしてくれる仕事をくびになって社会的に追い込まれて、家族(というか母)との関係もうまくいかず、ほかの人間関係もうまく行かない……となったら、追い込まれた何も失うもののもないただの人が人を殺しても、「追い込まれて失うものもないものなー」と納得してしまう。そこに圧倒的な不条理とか狂気とかはない。ただ普通の悪役だ。

いちばん醒めてしまったのがジョーカーのあの不気味な「笑い」を、脳の病気と説明してしまったことだ。「笑い」という行為は基本的にポジティブなものにも関わらず、圧倒的な恐怖にかえてしまうジョーカーの「笑い」。あれをもともと持っていた脳の疾患と片付けてすまっては誕生譚としても物足りなさを感じてしまう。

ジョーカーが人間的であることへの評価はTwitterの反応等をみても別れていて、「普通の人に潜む狂気」のように褒めている人もいれば、物足りなさを感じている人もいるようだ。個人的には「普通の人に潜む狂気」なんて描写はありふれているので、その先を目指して欲しかったな、というのが正直な感想だった。

でも、映画『ジョーカー』でよかったのは、狂気が街中に伝染していってカオスの中にジョーカーが立っていたこと。カオスを描くのは難しいけれども、「ピエロ」という道化をジョーカー自身が演じていたことによって、ゴッサムの街を狂気と道化と混沌が埋め尽くしている映像はなかなか目を引くものがあった。

とはいえ、これだけ冷笑主義が蔓延こっている現代社会で(日本だけ?)、社会的弱者が強いものに対して一致団結して決起するというのは想像するのは難しく、ピエロたちが警察を襲うシーンはどうしてもご都合主義な感じは 否めなかった。
もっと、社会的立場の上下の全てを混沌に叩き込んでいったら面白かったのに、という物足りなさも感じた(ブルースウェインの父がその混乱で殺されるわけだが、どうしても下位階層が一致して上に刃向かう一環のように見えてしまった)

とはいえ、ラストシーンは映画自体を虚実入り混じる混乱に叩き込んでいるので、どこまでベタに作っているのかはよくわからないのですが、どうしても物足りなさが個人的にはあった映画だった。とはいえ、勝手に期待して期待が裏切られただけなので、自分が悪いのですが、もっと突き抜けて欲しかったな、という感想でした。